主日の福音09/08/30
年間第22主日(ルカ5:1-11)
清い生活、神の心にかなう生活は心の中から

伊王島・高島地区は、今回の衆議院選挙に関しては土曜日ですべて投票が終わっています。島民すべてが、日本の多くの人々よりも一歩先に選挙を終えて日曜日を迎えていることになります。

わたしも、一票を投じてきました。誰に入れたのか、何党に入れたのかはここでお話しする必要はないと思うのですが、やはり最終的には、わたしの心にあることを少しでも形にしてくれそうな候補者、政党を選ぼうと考えて投票に行きました。

もちろん中には、その人がどんな人であるかはどうでもよくて、どの政党に所属しているかでその人に投票した、という有権者の方もいらっしゃるかも知れません。それはまぁ、例えて言えばお気に入りのプロ野球球団があって、その球団のユニフォームを着ている、それだけで応援しているというようなものです。年がら年中空振り三振していてもかまわないというのです。

わたしはそういう応援の仕方は正直言ってどうかなぁと思っている人間です。ですから、「何党に所属しているから」というだけで一票を投じる勇気のある人には、それはそれでたいしたもんだなぁと思います。

今日の福音朗読ですが、ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがイエスのもとに集まっている場面で事件が起こります。イエスの弟子たちの中に、「洗わない手で」食事をする者がいるのを見たのです。

昔の人の言い伝えを固く守って生きる人々にとっては、目を覆いたくなるような出来事でした。それは、お気に入りの球団の選手だった人が自由を得て他の球団に移ったようなものです。または、ある候補者が、応援している政党から、対立している政党に鞍替えして立候補してしまったというようなものかも知れません。とても納得できないことだったのです。

ですが、イエスの説明は、理解ある人にはもう一度考えさせる照らしとなりました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」(7・15)形式にのっとって手を洗わず、掟に外れたことをしている。それは見た目には良くないことですから、掟に外れることを何よりも恐れている人にとっては、目を覆いたくなるような場面だったのです。

けれども、イエスは昔の人の言い伝えである「手を洗う」という儀式よりも大切にしていたことがあったはずです。もし、昔の人の言い伝えが何よりも大切だったとしたら、集まっている学者たちに言われる前に、イエスが弟子たちを厳しく叱ったことでしょう。

イエスは、弟子たちが昔の人の言い伝えを守るために手を洗うことを放棄しても、とがめなかったのです。なぜなら、言い伝えのために手を洗っても、それだけでは神を喜ばせることに直接結びつかないからです。

むしろ、ここには書かれていませんが、イエスと弟子たちは食事の時に感謝の祈りを唱えてから食事をしたことが想像されます。食事の前に祈ること。そのことのほうが、規則のために手を洗うことよりも大切なこと、より神を喜ばせることだと彼らは知っていたのです。

今回の総選挙は歴史的な選挙だと大騒ぎしています。外から聞こえる声に踊らされて投票しても、国のためにならないのではないでしょうか。外から聞こえてくるものは、たいてい大きな騒音です。むしろ、自分の心の中から、「ああ、そうだなぁ、それが本来の政治の姿だよなぁ」と思える、同感できる意見に賛成することが、必要なのだと思います。

つまり、今日の福音で問われていることは、今のわたしたちの生活にも同じことが問われているということです。身近な例で言うと、今回の総選挙にだって同じことが求められているのだと思います。イエスが求めていること、それは、人の言うことに右往左往するのではなく、本当に神を喜ばせるためにしなければならないことは何だろうかと考えることです。

イエスの時代に、本当に神を喜ばせるためには、昔の人の言い伝えに考えもなしに従うことではなくて、その人が心から、神を喜ばせることだと思えることを行う。そんな態度が必要でした。この態度はイエスによって初めて示してもらった態度でした。

今のわたしたちの時代も同じです。例えば選挙にしても、何も考えずにこれこれの党から出ている人に一票というのではなくて、この人は何と言っているだろうかと考えてから一票を入れる。そうすることでわたしの一票を用いて神を本当に喜ばせることになると思うのです。

「そんなの建前であって、実際は頼まれたらその人に一票入れなきゃいけないんだよ」とおっしゃるかも知れませんが、たとえそうだとしても心の中から、「うん、この人でいい」と思うことは、どんなときでも必要だと思います。

イエスは今日の最後にこう言いました。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(7・21-23)

このイエスのみことばから考えるべきことは、心の中にある思いをととのえなければ、わたしたちは自分の清さを保つことはできないということです。「主よ、あわれみたまえ」とか、「世の罪をのぞきたもう主よ、われらをあわれみたまえ」とわたしたちはミサの中で唱えていますが、本当に心の中からの声になっているでしょうか。よく考えてみましょう。

ミサ中によそ見をしながらでも、人の欠点に気を散らしながらでも、「われらをあわれみたまえ」と口は言うことができます。そうであってはいけないのです。心の中から、そう思って、ふさわしい祈りを唱えましょう。平和のあいさつ「主の平和」と言うときも、心の中から平和を願ってあいさつを交わしたいものです。

イエスは、心の中をととのえなければ、わたしたちは清さを保つことはできないと強く迫ります。生活の隅々にまで、イエスのこの願いが行き渡りますように。身近な例で言えば、心の底から、この決断が正しいと納得して、一票を入れることです。あらゆることに、イエスの期待することが行き渡るとき、わたしたちはこの社会に神の掟に根を張った神の国を建設することができるのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マルコ7:31-37)
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