主日の福音09/08/23
年間第21主日(ヨハネ6:60-69)
この夏、あなたをおいてだれのところに行きましょう

夏休みをいただきました。故郷に帰ってみると、夏休みを満喫している小学生、中学生にたくさん会いました。夏休みもあと1週間になると、宿題が気がかりなものですが、遠く離れた学校に通っていたわたしは、近くの学校に通っていた同級生たちとは違うことが気がかりになります。それは長崎に帰る日の天気です。

夏休み残り1週間になると、いつも天気予報を穴の開くほど見て、「フェリーが欠航にならないかなぁ」とつぶやいていました。この8月末というのは、ちょうど台風が長崎を通過する時期でもありましたので、強風波浪注意報とかが発表されると小躍りして喜んでいたものです。

けれども最終的にはフェリーも欠航せず、競り市に引かれていく牛のような重い足取りで上五島の奈良尾ターミナルに向かったものでした。今では、早く馬込教会に帰りたい気持ちが先になっています。

さて今週の福音朗読個所では、イエスのこれまでの言葉や行いにとうとう付いていけなくなり、弟子たちの中に離れていく者が現れます。もしかしたら、イエスに熱狂的になっていた人たちの熱が冷めたということだったかも知れません。

これまで行動を共にしていた弟子たちでしたが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6・60)と言って背を向けます。この時点で12人の弟子たちが残ったわけですが、イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけました。

イエスが言われた「あなたがたも離れて行きたいか」(6・67)という言葉は、自分にはぐっさり刺さります。中学生高校生の時、神学校に戻りたくなくて、フェリーが欠航すればいいのにと思っていた時期がありました。20歳を過ぎてくると、同世代の仲間が社会生活ですでに給料を手にし、わたしにおごってくれたりします。わたしはそんなことできる身分ではなかったので、羨ましい気持ちになりました。

そんな気持ちはすべて、司祭への召命を危険にさらすものです。その度にイエスから「あなたがたも離れて行きたいか」と言われていたはずです。司祭召命をしっかり見ようとしてなかったそのときどきの自分は、きっとイエスの期待に応えてなかったのだと思います。

「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスの言葉には、「きみたちだけは残ってくれるよな」という期待が感じ取れます。ペトロは本心は迷っていたかも知れません。イエスのすべてを理解しているわけではないのですから、このままついて行くことができるだろうかとためらっていたとしても不思議ではありません。

ところが、ペトロはきっぱりとイエスについて行くことを表明しました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(6・68)ペトロをはじめ12人の弟子たちは、離れ去っていった弟子たちが見抜けなかったイエスの何かを掴んでいたのです。この人について行ける。そう思えるだけの何かを、この時までに掴んでいたのです。

わたしも、イエスの何かを掴んで、今この日まで司祭として続いているのだと思います。イエスについて行きますとは言いながら、わたしが置かれている環境で、「だれが、こんな話を聞いていられようか」という出来事は少なからず起きています。

教区との関わりで、広報委員長に任命されていますが、教区報「よきおとずれ」に何かを載せる際に、「えー、どうしてこうなるの」というような思いを内心持ちながら紙面に掲載することだってあるのです。そんな時にも、「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスに難しい質問を向けられている気がします。

幸いに、司祭召命の歩みを続けて留まっています。何が自分を留まらせているのでしょうか。きちんと説明はできません。ただ、何かを掴んだのです。ペトロのように、戸惑いながらも、ついて行けるだけの何かを、イエスに見つけたのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6・60)。

きちんとした説明はできませんが、体験したことを話すことはできます。2つ、話しておきましょう。夏休みに入る前に、中町教会を使わせてもらって葬儀ミサをささげました。皆さんご存知の方の葬儀ミサです。わたしは説教の中でこう言いました。「今旅立っていく故人の今日に、希望を置くために、信仰が必要です。今旅立とうとしている故人の明日に、期待するために、信仰が必要です。」

これまで何度となく葬儀ミサの説教をしましたが、あのような言い方で信仰の必要性を祈りに集まった人に語り掛けたのははじめてでした。念入りに準備したからあの言葉が出て来たというわけではありません。また、経験を積んできたから、あの言葉が出て来たのでもないのです。

もし、あえてそれを説明するなら、あの時イエスがわたしにあのような言葉を授けてくれたのだと思っています。つまりイエスははっきりと、わたしの準備したこと以上の言葉を示して、イエスについて行けるだけの確信を与えてくれているのです。

わたしの経験からではとても思い付かない言葉をわたしの舌に授けてくれて、イエスについて行けるだけの確信を与えてくれるのです。この体験が、「だれが、こんな話を聞いていられようか」という危機がおとずれても、わたしを支えてくれているのだと思います。

わたしは同じ方の前日の通夜の時にも、イエスが先について行けるだけの何かを授けてくださるのだと感じました。前の日の通夜が、夜の6時に行われましたが、通夜のために夕方5時半、中町教会に行ってみると、たまたま、そこにシリアという国で木工職人に技術指導をしているシニアボランティアの家具職人に出会ったのです。

まったく前触れもなしにです。その日、その職人は夏休みで日本に帰国しており、彼の妻と故郷が同じだという女子パウロ会のシスターに夫婦で会いに来ていました。わたしは通夜と葬儀でたまたま夏休みを1日遅らせたので、シリアで技術指導をしているはずの人と中町で久しぶりに再会したのです。

どんな偶然もここまで重なることは難しいでしょう。けれども、イエスはこのようなことを通して、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と言えるだけの確信を与えてくれるということです。だれにとっても、何かしら、ついて行けるだけの確信を与えてくれる。イエスはそのような方なのです。

「あなたがたも離れて行きたいか。」きっとイエスは、ついて行けるだけの十分なものを先に示してくださったのではないでしょうか。その何かを、はっきり掴むための照らしを、今日のミサの中で願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
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