主日の福音09/08/16
年間第20主日(ヨハネ6:51-58)
パンであるイエスが、今も世を生かしている

今日はまず、実際にあった話から「ことわざ」を1つ思い出してください。ある人がイスラエルとローマ、さらにフランスの聖地巡礼に行きました。わたしもたった1度だけですがイスラエル巡礼に行ったことがありましたので、経験から学んだ簡単な勧めを、巡礼に出発するその人に1つ伝授しました。

「外国に行ったら、絶対に日本の味が恋しくなると思うよ。だから、醤油を、出前のお寿司に付いている小さな醤油差しに入れて、持っていってね。」するとその人は鼻で笑ってこう言うのです。「あはは。わたしの家庭は昔食べ物に相当苦労してきたんです。ですから、食べ物が口に合わないとかそういうことで不平不満を言ったりは決してありません。ご心配なく。」そう言って巡礼に出かけました。

その人が巡礼から帰ってきたので、わたしは早速醤油のことを聞きました。「醤油、役に立ったでしょ。」するとその人はこう言ったんです。「すみません。あれだけ言い聞かせてもらっていたのに、醤油差しを持っていかなかったんです。巡礼先では苦労しました。何の味もしない素揚げの魚を食べさせられたり、フランスではフランス料理が出るものだと思っていたら、口に合わない料理を食べさせられたり、おまけに固いフランスパンを思いっきりかじったら、歯が折れてしまったんです。」

そんなこと知ったことかと思いましたが、あれだけ忠告したのに醤油差しを持って行ってなかったんですね。「言うことを聞かずに、現場で苦労させられて身をもって知ること。」こういうのを「ことわざ」で何と言いましたっけ?そうです。「百聞は一見にしかず」と言うんですよね。

今日はこの、「百聞は一見にしかず」を、与えられた朗読箇所から学んでみたいと思っています。イエスは言いました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6・51)

このみことばは、いくら頭で想像しても、理解できるものではありません。つまり、どれだけ言葉で説明を受けても、イエス・キリストを食べる、すなわち聖体を拝領する体験に導かれなければ、その意味を理解することはできないのです。

わたしはこれまでに何度も、初聖体を準備してきた子どもたちが、その小さな手にご聖体をいただき、拝領する様子を見てきました。初聖体式と言ったりしますが、初聖体のために、いつの時代でも、どこの教会でも、準備を欠かさずにしてきました。

子どもたちの初聖体の準備は、ほとんどの場合シスター方が受け持ってくださいますが、シスターの教育が良いのか、聖体の秘跡がそうさせるのか、初聖体を受ける前の子どもと、初聖体後の子どもでは、同じ子どもなのに顔つきが一変するのを見てきました。

お兄ちゃんが初聖体の日を迎えた時、弟がご聖体の味はどんな味なのかしきりに聞く様子も見たことがあります。わたしはそういう場面に出くわすと、よく「これだけは教えられないと弟に言ってあげなさい」とけしかけることにしています。どんなに言葉で説明しても、聖体を拝領する前と拝領した後の変化を、人に説明するのは難しいのです。まさに、「百聞は一見にしかず」ということなのです。

ところで、この聖体拝領について、もう一つ考えてもらいたい例を話したいと思います。現在福者になっているマザー・テレサは、生前次のようなことを語りました。今から33年前、1976年12月シンガポールで「世界宗教者会議」が開かれた時、アジアの色々な宗教の代表者が200人程集まり、宗教者の和解について話し合いました。その閉会式にマザー・テレサが招かれて、あいさつをした中で出てきた話です。

「わたしは毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主をいただいています。そしてもう一つは、町の巷の中でいただいています。先日町を歩いていると道端の溝に誰かが落ちていました。引き上げてみるとおばあちゃんで体はネズミにかじられ意識もありませんでした。それでわたしは体をきれいに拭いてあげました。すると、おばあちゃんがパッと目を開いて、『マザー。どうもありがとう』と言って息を引き取りました。」

「その顔はそれはそれはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、わたしにとって御聖体でした。『わたしは飢えた人、凍えた人の中にいる』とイエスがおっしゃったように、あのおばあちゃんの中に主がいらっしゃった。おばあちゃんを天に見送った時に、わたしの心の中に主が来て下さったのです。」

開会式のこのあいさつを聞いて、会議の議長を務めていたマレー大学副学長であり、イスラム教の有名な学者が、「会場の皆さん、今マザーの話を聞かれたでしょう。わたしの気持を言えば、このままこの宗教者会議を閉じたいところです。マザーの言葉を胸に秘めて、帰国の途につくのがいいと思います。」と語ったのだそうです。マザー・テレサのあいさつは、その場にいたすべての宗教者の心を打ちました。

ここでことわざを思い出しましょう。「百聞は一見にしかず。」わたしたちが、マザー・テレサの言葉を理解するためには、わたしが引用した話を繰り返し聞けば足りるのでしょうか。そうではないでしょう。マザー・テレサの言葉を確実に理解するためには、わたしたちは出かけて行って、街中で、社会の中で、わたしたちの手を必要としている人に出会って、出会ったその人からイエス・キリストをいただく必要があると思うのです。

さらに、今週の福音朗読を踏まえてことわざを考えてみましょう。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」みことばを繰り返し聞くだけでは足りません。食べてみなければ、拝領しなければ、イエスのみことばは理解できないのです。

マザー・テレサの体験から考えると、イエスをわたしたちがいただく場はミサ聖祭においてと、社会においてです。ミサの中では、みことばというパンをいただくことと、聖体をいただくことでイエス・キリストを拝領します。社会の中では、わたしの手を必要としている人に手を差し伸べる時、その人からわたしはイエス・キリストをいただくことになります。

2つの聖体拝領、どちらも大切です。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」ミサがささげられる聖堂に、わたしたちはいつまでも居続けるわけではありません。聖堂にいつまでも居続けて生活できる人はごくわずかです。むしろ、心はときどき聖堂に安置されている御聖体に向けて、社会に居続ける人のほうがはるかに多いのです。どちらにいても、イエス・キリストを拝領する場があるとわきまえて、礼拝の集いも、社会生活も、大切にしたいものだと思います。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」このみことばを真に理解するために、2つの聖体拝領を体験することにしましょう。2つの聖体拝領を通して、世を生かしてくださるイエス・キリストに今週も出会うことができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
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