主日の福音09/08/02
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
イエスが見ているものを見る目を養う

ここ数ヶ月で、わたしの目に明らかな変化が生じ始めました。いろんな兆候はあったのです。一例を挙げますと、時計を外して、裏に刻まれている文字を見ようとしても、まったく見えないのです。焦点を合わせることができず、メガネを外してみると、何とか読み取れるようになりました。

その瞬間、「ううっ!」と思ったのです。近視のメガネを外して文字が見えるようになったのですから、明らかにこれは老眼です。ガックリきました。メガネを外して物を見ている人は自分とは違う世界の人たちだと思っていましたが、とうとうその仲間入りをすることになりました。

あまり認めたくはなかったのですが、どうしても今までの近視のメガネでは調節できない部分が出てきたので、夢彩都にある眼鏡屋さんに行って相談しました。レンズをいろいろ組み合わせて最適のレンズを提案してくれるわけですが、「この状態に、1枚加えてみます。どうですか?」

「よく見えます。」「あー、今1枚加えたのは老眼のレンズです。お客さま、43歳ですよね。私も、43歳から遠近両用のメガネを使い始めました。思い切って、使い始めることも1つの手です。」「じゃあそうします。」まぁそういうことで、今週からそういうレンズの入ったメガネを掛けています。「そういうレンズって、遠近両用のレンズってこと?」とか言わないの。

今この状態では、近くも遠くもかなりよく見えています。よく見えるようになってみると、見えてなかったんだなぁということもよく分かります。何が見えてなかったか。それは、今までとは違う助けをもらわなければ、今までのことができなくなってきているという事実です。

もちろん、近視のメガネを外せば、近くのものは見えていました。けれども、そういう状態でしばらく過ごしても、自分が遠近両用の補助が必要だとは分かっていなかったのです。遠近両用の補助を得て初めて、「あー、遠近両用が必要になっていたんだなぁ」と分かったということです。

この体験は、今日の福音朗読箇所を考えるのに役立ちました。イエスと群衆のやりとりで、群衆にイエスの指し示したものが全く見えていないことが明らかになります。群衆はイエスと弟子たちを追いかけました。

そして追いついたのですが、イエスは群衆に釘を刺します。「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(6・26)イエスと五千人の群衆の間で、パンの奇跡が行われました。パンの奇跡の中でイエスが示そうとしたのは民を養う神としてのご自分でした。ところが、群衆がパンの奇跡の中に見たものはパンだったのです。

イエスはパンの奇跡ではっきりと「わたしが示そうとしている物を見なさい。わたしが伝えたいことに気づきなさい」と促していました。この部分を、わたしたちは自分の生活の中に見る必要があります。わたしたちは目の前で起こっていることに何を見ているのでしょうか。それが今日の説教の中心部分です。

いちばんまずい状態について触れておきます。福音朗読のいちばん最後の部分です。「彼らが『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。』と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6・34-35)

群衆は、自分たちに命を与えてくれるまことの食べ物は、イエス・キリストなのだととうとう気づきませんでした。群衆はイエスのそばにいながら、イエスからいちばん遠い考えをしていたのです。

さて、わたしたちはどうでしょうか。身近な出来事の中で、イエスがわたしたちに分からせようとしていることに目が向いているでしょうか。具体例を挙げて考えてみます。7月1日は188福者の列福記念日になっていました。何人かの人は、「そうだった。7月1日は福者の記念日だった」と思い出したことでしょう。思い出し、その日にミサに参加した人もいると思います。

7月1日(水)に、ミサに参加しなかったとしても、思い出して何かの行動を起こした人はいるでしょうか。残念ながら行動を起こすこともしなかったという人もいるかも知れません。ここまででわたしが言いたいことは、「列福式で福者が与えられましたが、わたしたちはその時に何を見たのでしょうか」ということです。

一年経ってみて、列福式はわたしたちに何を示してくれたのでしょうか。鳩が飛んだのがあなたの目に焼き付いているのでしょうか。大きな福者の絵が掲げられていました。あの絵が、あなたの中に焼き付いたのでしょうか。それとも、真っ赤な祭服を着たたくさんの聖職者たちの姿が、最後に残ったのでしょうか。

わたしは、今並べたようなことは、いつか忘れられてしまうだろうと思います。ヨハネ・パウロ二世教皇さまがおいでになったとき、ミサは何色の祭服だったでしょうか。松山競技場でのミサの時、出し物として鳩は飛んだでしょうか。それらのことを、25年以上経ってみると、どうだったかなぁと思っているわけです。ただ一つ、寒かったことだけが印象に残っています。

そのたった一つの思い出が、わたしたちは問われているのです。教皇さまは、わたしたち日本のキリスト信者の中にかけがえのない良い物があることを気づかせるために、日本にやってきたのです。それは、司祭がいない迫害の時代にも、失わなかった信仰です。この信仰を見直してもらうために、教皇さまは来たのです。

250年もの間変わらなかった信仰は、188殉教者の中にあります。信仰とこの世の宝とを、交換することはできないと言って、信仰のためにこの世の命を手放しました。絶対に譲れないものは何かを知っていたのです。福者になった188殉教者たちは、迫害の中に、決して失われないイエス・キリストという宝を見ていたのです。パンの奇跡でパンを見ていたのではなく、パンの奇跡の中にイエス・キリストを見つけたのです。

わたしは、ヨハネ・パウロ二世教皇さまが来日して教えてくれたことは、わたしたちが持っている信仰が、迫害の中でも、信仰があまり大切にされない今の時代の中でも、決して譲れないものですよと教えてくださったと思っています。

教皇さまがおいでになったときも、188殉教者の列福式の時も、大変厳しい天気でした。皆さんの中にはそのことが忘れられないかも知れません。あるいは、どちらの時もたくさんの聖職者を見たかも知れません。けれども、これらのことはイエスさまが見ているものとは違うと思うのです。

教皇さまがおいでになった時にイエスさまが示そうとしたことも、列福式を通してイエスさまが示そうとしたことも、実は同じだと思っています。それは、「あなたに注がれた洗礼の恵みは、決して譲ることのできないものなのですよ」ということです。

今週の福音朗読を通して、「イエスが見ているものを見る目を養おう」と決意しましょう。イエスが見ているものを見ていなければ、わたしたちの目は今もピンぼけしているのと同じだと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
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