主日の福音09/07/26
第17主日(ヨハネ6:1-15)
主よあなたが解決してくださると信じます

今週は、「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語で、四つの福音書が(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)ともに出来事を残しているわけですが、他の三つの福音書(「共観福音書」と呼びます)の書き方とはっきり違いを見せています。共観福音書では、パンの奇跡が行われた場所は「人里離れた場所」とされていますが、ヨハネは出来事が山でおこなわれたとしています。

この「山」という表現ですが、稲佐山だったのか、岩屋山だったのかという細かい話は問題ではなくて、かつて山で行われた出来事と、今回の出来事を重ねて考えてみなさいと言いたくて、「山」という場所を用いているようです。

では、「かつて山で行われた偉大な出来事」とは何でしょう。イスラエル人が真っ先に考えるのは「十戒の出来事」でしょう。神はモーセを通じてイスラエルの民に十戒を授けました。民はこれを守り、それによって神が民を守り、救うというものです。

ですから、イエスが五千人に食べ物を与えるという奇跡を「山」でおこなったという書き方をヨハネがしているのは、かつての山での出来事を思い出しなさい。神が十戒を与えて民を守り、救うしるしを与えたように、今イエスも、あなたたちを守り、救うしるしとしてパンを与えているのですよと言いたいのです。

ヨハネが描くパンの奇跡、共観福音書に見られないもう一つの特徴は、この出来事を「しるし」として示している点です。出来事の結末に目を向けて欲しいのですが、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(6・15)とあります。

群衆は明らかに「しるし」を見誤ってしまったのです。パンを食べさせてくれたのは、かつて十戒を授けてくれた神にわたしたちの目を向かわせようとしているのだと気づくべきです。イエスもまた、神の子としてわたしたちの救いのためにこの偉大な出来事をなさったのだと気づいて、神をたたえるべきだったのです。

ところが、群衆が取った行動は、イエスをこの世の王に仕立てようとする態度でした。この世の王は、人々を支配する存在です。救いを与えるのではなく、支配のもとに人々を置くに過ぎません。支配ではなく、神に守られ、愛されている喜びを持ちながら生きるために、奇跡をしるしとして用いたのです。しるしとしての何かが必要だったのですから、パンの奇跡でなくても、他の奇跡でもよかったかも知れません。

さて、このようなヨハネの理解を踏まえて、パンの奇跡の出来事をふり返ってみましょう。イエスは、フィリポに尋ねます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」(6・5)イエスはひとまずそばにいた弟子に尋ねています。弟子に何かを気づかせるためにほかなりません。

自分たちが山に来ているということや、パンを買って用意するには絶望的な状況であること、それなのにイエスが自分に「どこでパンを買えばよいだろうか」と、解決策があることを前提に尋ねていることなど、たくさんのことに気づいてほしいと願っていたのだと思います。

フィリポは置かれている状況が絶望的であることには気づいたようです。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」(6・7)シモン・ペトロの兄弟アンデレも、何かはあるけれども、何かがあるだけで何の役にも立たないだろうと決めてかかっています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6・10)

この状況は、きっとわたしたちの状況を指しているのだと思います。わたしたちも、イエスからなぞかけをされたときに、ある部分については把握できているのですが、大事な部分に気づくことができないのです。状況は絶望的で、わずかに何かがあるけれどもそれは何の役にも立たない。そうとしか考えることができないでいるのです。

そこへ、イエスは見落としている大切なことを指摘します。絶望的な状況だけれども、わたしがそばにいるのを忘れてはいないか。何の役にも立たないくらいしか手持ちがないけれども、その役に立たないほどわずかのものを活かすことのできるわたしがいるではないか。そのことをイエスは、当時の弟子たちにも、わたしたちにも言いたいのではないでしょうか。

わたし個人を考えてみても、八方ふさがりの中でなげやりな気持ちになることが繰り返し起こります。今日は26日で今月もあと残りわずかになっています。先週の金曜日締め切りという、とある原稿がありましたが、20日過ぎまでわたしの中で何を探してもどう思い返してもネタが見つからない状況でした。

そうなれば誰かと出会って、その出会いの中で何か発見でもあればよいのですが、この伊王島では誰かと出会うといってもたかが知れています。そう思っていましたら、1人の婦人の方から声を掛けてもらいまして、その時話したわずか2・3分の会話でパッとひらめき、締め切り間際に原稿を提出することができたのです。

状況はもう絶望的でした。何かがあると言っても、何の役にも立たないほどしかありませんでした。その時、わたしはイエスがそばにいてくれることを全く考えに入れてなかったのです。まさに、イエスはもう絶対ダメ、どうにもならないという場面で、ご自分がそばにいることを力強く示してくださったのだと思います。

食べ物がなくて困っている人を全員食べさせるためにイエスさまがおられるわけではありません。全く希望のないところに、希望を与えるしるしとして、イエスはおられます。全員食べさせるのは、国の仕事、国連の仕事です。そうではなく、こんなものがあっても役に立たない、こんな人材不足では何もできないと嘆いているところに希望を与えるために、イエスはしるしとしておられるということです。

わたしたちは、イエスが示す奇跡をきちんとしるしとして読んでいるでしょうか。わたしが抱えていた絶望的な気分は、イエスがそばにいることを忘れていたことで生じていたのではないでしょうか。イエスは今も、わたしたちに「この絶望的な状況を、どうしたら打開できるだろうか」となぞかけをしているのではないかと思っています。

それに対して「もちろん、あなたがそばにいてくだされば、きっと解決できます」と答える準備をしておきましょう。その答えを、イエスは今か今かと待っておられるのではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
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