主日の福音09/07/05
年間第14主日(マルコ6:1-6)
イエスの全能の力を妨げない生き方をする

7月3日、使徒聖トマスの霊名の祝日を迎えまして、今日日曜日に、わたしの霊名の祝いのため、信徒一同でミサの依頼をしていただきました。感謝申し上げます。ここに置かせてもらえる喜びを感じながら、精一杯奉仕したいと思っています。

今日の説教は、福音の学びから入って、司祭年を意識しながら話してみたいと思います。まず、今日の朗読箇所のどこに注目してみたかということから話に入りましょう。今年、わたしが注目したのは、出来事の最終場面に当たる場所です。6章5節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」という部分です。

わたしたちは、神について次のように学んだはずです。「神にできないことはありますか」「神にできないことは何一つありません。これを、神の『全能』と言います。」皆さん間違いなく知っている教えです。

確かに「神の全能」について習いましたが、今日のイエスさまはその「全能の神」という姿に当てはまっていないのではないでしょうか。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」わたしたちが理解している神の姿を現していないような気がします。

では、奇跡がおできにならなかったことと、神の全能の力とは、矛盾するのでしょうか。この点を今週の朗読箇所から今年は考えてみたいと思っています。結論から言うと、奇跡がおできにならなかったという事例があっても、神の全能の力は衰えたり曇ったりするものではないということです。

2つの方向から考えてみたいと思います。まず、神の子イエス・キリストの全能の力は、地上でもまったく変わりがないことを確認しましょう。同じマルコ福音書の第9章には、「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」奇跡が取り上げられていて、父親がイエスに「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」(9・22)と話し掛けました。

それに対してイエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(9・23)とはっきり伝えます。そしてその父親もすぐに叫んで、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(9・24)と答える場面がありました。イエスはここではっきりと、「信じる者には何でもできる」ときっぱり答えているのです。

一方で、事態が避けられない場面もわたしたちは思い出すことができます。イエスの受難とご死去が近づいている中で、ペトロの離反を予告した時、ペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(14・29)と言います。それにもかかわらずイエスは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(14・30)と明言するのでした。

「ペトロは力を込めて言い張った」ようです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14・31)実際は、出来事はイエスの予告通りに進んでいきました。

この場面で、イエスがペトロを無理矢理裏切らないように金縛りに遭わせるとか、そういうことができただろうかと考えると、おそらくそういうことを望めばできたのだろうと思います。けれども、神は人間の意志を踏みつけてまで、何かをなさったりはしないわけです。おできになるかどうか、神の全能を問うならば、ペトロに絶対裏切らせないように、ペトロの意志を押さえつけてしまうことも可能だったでしょう。けれども、神はたとえ全能であっても、人間の意志を踏みつけたりはしないのです。

同じことは、イスカリオテのユダに対しても当てはまります。ユダは、祭司長たちのところへ行き、イエスを引き渡す手引きをしました。「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(26・15)。

もしイエスが無理矢理イスカリオテのユダの計画を押さえつけようとするなら、それも可能だったかも知れません。けれども、神は人間の意志を踏みつけてまで何かをなさろうとはしないのです。たとえそれが、悪意のある計画であっても、人間が自分の意志で選んだことを、踏み越えて押さえつけたりはしないのです。

ここまで、2つの事例を取り上げました。イエスは、ご自分が全能の神であることをよくご存知です。「信じる者には何でもできる」と仰っています。一方で、人間の意志を尊重して、踏みつけることはしません。この両方の姿を頭に置いてもう一度今週の朗読を考えると、起こっている出来事が理解できるようになるでしょう。イエスは奇跡を行う全能の力を持ておられますが、人々が不信仰に留まるなら、その思いを踏みつけてまで奇跡を行うことはしないのです。

人々が奇跡を信じなくても、無理矢理奇跡を起こしてやるんだと、そういう態度は取らないのです。これが、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」という部分です。

全能の力を神がお持ちであっても、人間の意志が神の働きを拒み、受け入れないなら、全能の力は示されないということになります。これは、人間の責任を問う大切な問題です。神には不可能がないのに、人間が神の全能の力を妨げるつまづきとなり得るということなのです。

そこで中田神父は振り返って考えるのです。イエスは、わたしの上にも全能の力を発揮することがおできになるわけですが、わたしがイエスの邪魔になって、例えば奇跡をおできにならないことが起こっているのではないか。「わたしはあなたを裏切ります」と意思表示したために、イエスのなさりたいことの妨げになる場面があったのではないか。そう思う時、わたしの責任は重大であると感じたのです。

たとえ、事が小さい場合でも、同じようなケースは起こりうるのではないでしょうか。イエスがわたしを通して、だれかに手を差し伸べようとしている。だれかの叫びを拾ってあげようと考えている。それなのに、「わたしはあなたに協力しません」と意思表示をしたために、イエスのわざがおできにならないままになっている。しばしばそのような形で、神の全能の力に、わたしが躓きの石となっているのではないだろうか。司祭年を過ごす中で、まず最初に振り返りたい部分だなぁと思いました。

もちろん、わたしの反省として申し上げたことは、皆さんも、お一人お一人自分に当てはめて考えていただきたいのです。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。このような結果が生じてしまうのは、わたしたちに原因がある可能性があります。

今イエスが、わたしたちの中で神の偉大なわざを行おうとしているかも知れない。それなのに、おできにならないとしたら、責任は重大なのではないでしょうか。今の時代に、もっとイエスの働きが十分に発揮されるために、わたしたちはイエスに大きな信頼を寄せて生きていく必要があるのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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