主日の福音09/06/28
年間第13主日(マルコ5:21-43)
イエスの心に触れる生き方を目指そう
ようやく、賄いさんの退院の目処が付きました。日曜日の昼ご飯を食べたあとに退院だそうです。30日までは息子さん夫婦の家に寄せてもらって、それから体と相談しながら司祭館の仕事に復帰してくれるようです。やれやれといった感じです。
6月最後の日曜日は、とても大切な日曜日です。それは、昨年6月29日(日)から始まった「パウロ年」の閉年を宣言する日曜日だからです。この1年間、聖パウロの手紙から多くのことを学び、生活に生かそうと努めてきました。教区内あちこちの地区で聖パウロについての講演会も開かれましたし、わたしたちは小教区の中で「聖パウロの手紙を学ぶ会」を続けてきました。
お知らせしましたように、日曜日の午後2時から、浦上教会で「パウロ年の閉年ミサ」がささげられます。参加者と共に、この1年取り組んできたことの発表が本部事務局のまとめで披露されます。その中には、馬込教会・大明寺教会が取り組んだ「聖パウロの手紙を学ぶ会」のことが特別に取り上げられるそうです。わたしたちの取り組みが、教区本部の目に留まったということです。
また、参加者のために、記念のメダイが1000個用意されていると聞きました。そのようなお楽しみもありますので、ぜひ都合をつけて参加し、パウロ年でいただいた恵みを、教区のみんなと分かち合ってほしいと思います。
では福音の学びに入りましょう。今日の朗読福音は、一部省略することのできる箇所が含まれています。会堂長ヤイロの娘が命の危険にさらされているという物語に、途中12年間出血の止まらない女性の物語がサンドイッチのように挟まれています。朗読を省略することもできますが、あえて省略しないで朗読しました。
というのは、今週の朗読の中で、わたしは出血が止まらない女性とイエスとのやりとりがとても興味を引いたからです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と固く信じて、「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(5・27)のでした。
イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて、群衆の中でふり返り、「わたしの服に触れたのはだれか」(5・30)と尋ねました。この、イエスが仰った「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉に、わたしはぐっと引き込まれました。
イエスが仰った「触れる」という言葉ですが、もちろん服を掴むという意味もあると思いますが、わたしは、「イエスの心の奥に触れる」ということも、言葉の中に含まれているのではないかと思いました。それを他の言葉で言えば、「動かされた」という言葉に近いかも知れません。動かされたという言葉を聞いたとき、多くの人は「心が動かされた、感動した」ということを考えるのではないでしょうか。
「わたしの服に触れたのはだれか。」イエスは、ご自分の心にまで触れるような強い決意で近づいてきた女性がいたことを感じ取ったのです。だれかが、イエスの心に触れたのです。
女性は、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました(5・33)。女性はまだイエスの思いを理解していませんでした。ですから恐ろしかったのです。
イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(5・34)と声をかけます。イエスにとって、女性の取った態度は、心にまで触れる感動的な出来事だったのです。心にまで触れる態度を、イエスは押し寄せる群衆を前にして、たたえたのです。
この出来事が、会堂長ヤイロの娘の癒しの間に挟まれました。会堂長ヤイロは、本当は娘の命が心配で、途中で足止めを食うのは不本意だったと思います。けれども、イエスが動いてくださるまではイエスをせかすことはしませんでした。そこには、ヤイロなりの理解の深まりがあったのだと思います。
会堂長ヤイロは、まずイエスにお目にかかったとき、「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(5・23)と自分の信仰を表明しました。ただし、このイエスへの信頼は、出血症の女性とのやりとりの間に揺らぎ始めます。本心は、目の前の女性など放っておいて、まっすぐに娘のところに来て欲しかったのです。
けれども、ヤイロの信仰は深まっていきます。会堂長の家から使いの者がやってきて、娘が死んだことを告げました。それでもイエスに「恐れることはない。ただ信じなさい。」(5・36)と言われ、踏みとどまったのです。また進んで、「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5・39)とイエスが声を上げたとき、人々のあざ笑う声が自分にも向けられていると感じたでしょう。それでもヤイロは、イエスへの信仰に踏みとどまったのです。
実はここに、出血症の女性とのやりとりに共通する部分が隠されています。会堂長ヤイロも、もうイエスについて行けないと思えそうな場面に至っても踏みとどまることで、イエスの心に触れていたのではないでしょうか。ヤイロの信仰もまた、イエスを感動させるに足る信仰だったのではないでしょうか。
こうして、両方の奇跡物語は1つのしるしとして示されていることが分かります。それは、イエスの心に触れるほどの信仰は、イエスから奇跡すら引き出すということです。
わたしは、今週の福音朗読を分かち合いながらこう考えました。イエスは、今もわたしたちに呼びかけているのではないか、ということです。「わたしの服に触れたのはだれか。」イエスの服に触れ、イエスの心に触れるほどの信仰の持ち主はどこにいるか。そのようにイエスは問いかけているのではないでしょうか。
どんなに小さな隣人愛でも、イエスの心に触れるほどの隣人愛である可能性があります。わたしは気づいていなくても、これまでおささげしてきたこと、これまでにゆるしてあげたこと、これまでの働きで力になってくれたこと、これらがイエスの心に触れている可能性があると思うのです。
「わたしの服に触れたのはだれか。」あなたが知らないところで、イエスはあなたの隠れた行いを高く評価してくれているかも知れません。
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
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