主日の福音09/06/21
年間第12主日(マルコ4:35-41)
困難があっても共にいるイエスに信頼して渡る

金曜日でした。墓地管理委員会の通帳に島外の人の管理費が入っていないか郵便局まで確認に行ったのです。集団下校している小学生に会いました。その中に、付き添いの大人の人から「ほら!そんなところに登ったら危ないでしょ」と注意されている小学1年生がいました。

船津の、一ノ瀬電気の並びの道路は、一段高くなったコンクリートの土手の上に簡単な手すりが設置されているわけですが、注意されても言うことを聞かず、狭い土手を平気で歩いている1年生がいました。わたしはバイクに乗って、ヘルメットをかぶっていましたが、その1年生から、「あー、何か神父さまに似てる」って言われましたが、似てるんじゃなくて神父さまです。

6月19日、今年のイエスのみ心の祭日はとても大切な祭日になりました。この日から来年の6月19日までを、教皇ベネディクト16世は「司祭年」とすることに決めたのです。この司祭年に当たっての呼びかける中心になる相手はもちろん司教・司祭で、司祭年のテーマは「キリストと教会への忠実」となっています。

わたしも自分の司祭職を、委ねられた務めを、キリストと教会に対して忠実に、誠実に果たしているかと言われると、やはり反省させられます。「だいたい」は果たしているでしょうが、「忠実に、誠実に」果たしているか。うーん、まだまだ足りないなぁと感じます。

さて福音朗読は、イエスが弟子たちを促して、舟で湖の向こう岸に渡ろうとする出来事が取り上げられています。イエスは、「向こう岸に渡ろう」(4・35)と弟子たちに言いました。この時点ですでに、かつてモーセを先頭にして、イスラエルの民が紅海を無事に渡ったことが背景にあるのかなと考える必要があります。

出エジプトの出来事を背景にして、目の前で起こっていることを考えると、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(4・37)という様子は、後ろからは追いすがるエジプト軍の精鋭部隊、前は海という絶体絶命のピンチが思い起こされます。この前にも進めない、後にも引けない状況で、神は水を分けられ、イスラエルの民は乾いた土地を歩いて対岸まで渡ったとされています。

同じように、イエスは弟子たちのあわてふためく中で、枕をして眠っておられるのです(4・38参照)。ここには、父である神への絶対の信頼の中にイエスはおられて、たとえどんなに惑わされそうなときでも、揺るがないという姿があり、かつてのモーセとイエスの間で重ねて見ることができます。

ですから、イエスのこうした態度は、自然を超越している神の子だからできるのだという意味よりも、どんな場面でも父なる神への信頼を失わないという態度を学ばせるためのジェスチャーなのではないでしょうか。つまり、波をかぶっている状態でぐーぐー眠っておられたというのが出来事の中心なのではなく、腕を組み、目を見開いて、動じない。そんな意味合いがイエスの態度にはあるのだと思います。

一喜一憂しないということでついでの話ですが、先週始め賄いさんから電話があり、リハビリを懸命にこなしていて、予定通りいけば今月いっぱいには退院できるだろうという報告でした。その際、「一時的に膝の周りが腫れたこともあって心配した」というので、わたしはこう返事したのです。「晴れの日も、曇りの日もあると。人生晴ればかりじゃない。いちいち心配しない。」そう言ったら電話の向こうではげらげら笑い転げておりました。

さて福音に戻りますが、弟子たちはイエスの一連の行動に恐れを感じています。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(4・41)弟子たちは目の前で起こっている出来事が十分理解できていませんでした。

湖を渡る体験が、もしかしたらかつての紅海を渡ったイスラエルの民の体験と重ねられているのではないだろうかということや、イエスがどうしてあそこまでして落ち着き払っている様子を示そうとしているのか、さらにはイエスと共にあるなら、「向こう岸」に渡ることができるということも、その時は理解できていなかったわけです。

この記事を書いたのはマルコ福音記者です。他にもマタイとルカも同じ記事をとりあげています。皆さんも今年の黙想会で理解しているように、マルコはパウロの第1回宣教旅行で活動に同行し、のちには別行動を取ることになりましたが、それでもパウロやバルナバに認められていた人物でした。

マルコはふり返ってみて、12人の弟子たちが体験した湖を渡る出来事はイエスに絶対の信頼を置くように促す意味深い出来事だったことを物語の中に込めようとしたのです。しかも、旧約聖書のエジプト脱出の出来事を意識しながら物語を描いている節があるのです。

モーセと共に、かつてイスラエルの民は紅海を渡ったじゃないか。イエスと共に、嵐の湖を渡ったじゃないか。わたしたちの舟である教会も、イエスと共にあるなら、どんな嵐でも渡っていけるはずだ。そんなことがこの物語には込められているのではないでしょうか。

今年、教皇さまの願いで、「司祭年」が設定されました。もしかしたら今の社会の中にあって、教会という舟は転覆寸前なのかも知れません。これまでの常識を根底から揺るがす強風が吹き付けているし、これまで考えることすらしなかった意見や現実が一気に舟の中に流れ込み、水浸しになっています。それなのに、目に見えた動きがないのです。これでは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いたくなるのも無理はありません。

けれども、イエスはかつてもそうであったように、今も船に一緒に乗っておられて、揺るぎない態度を保ち続けておられるのだと思います。「黙れ、静まれ」(4・39)とだけ命ずれば、風はやみ、すっかり凪になる。弱いわたしたちは、そのことがなかなか信じられないのだと思います。

この「司祭年」という一年、固い信頼をイエスに寄せたいと思います。いつもイエスのほうから「向こう岸に渡ろう」と呼びかけを受けているはずです。もしかしたら今のままの方が楽でいいのかも知れません。けれども、危険があるとしても、イエスはわたしたちに「向こう岸に渡ろう」と促すのです。

あえて危険を覚悟で向こう岸に渡る経験をしなければ、わたしたちのイエスに対する信頼は深まることができないのかも知れません。何も、絶対というものがない現代だからこそ、イエスへの絶対の信頼がより必要になってきているのではないでしょうか。

向こう岸に渡れない、さまざまな事情を抱えている人もこの中にいるかも知れません。けれども、向こう岸に渡ろうと決心するとき、必ずイエスがそばにいてくれることを体験できます。なかなかイエスに信頼して生きることを選ばない今の暮らしから、イエスへの信頼を生活の土台にして生きる人間へと渡りきることができるように、お互い恵みを願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(マルコ5:21-43)
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