主日の福音09/06/14
キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)
取って食べなさい
火曜日から金曜日まで、教区司祭の黙想会に参加してきました。黙想の指導はイエズス会の林 尚志(ひさし)神父さまでした。まもなく後期高齢者ですと言っていましたが、どうしてどうして、身振り手振りも交えて説教をする方で、時間割に従えば説教の時間は45分のはずですが、いちばん短いときでも60分、いちばん長かったのは72分も話していました。どこからあんな元気が出てくるのか、学びたいなぁと思ったくらいです。
説教の内容は、大きく言うと、「イエスとの出会い、交わりの中で、わたしたちにイエスの命が流れる。交わりを大切に」ということだったと思います。交わり、出会いを大切にする中で、わたしたちは誰でも自分の中心に芯となるものが1本通っていて、この「中心線・芯」を、イエスの中に流れている「中心線・芯」とぴったり重ねて生きることが最も重要なのだ。芯と芯を重ねるから、これをイエスとわたしたちとの芯重と捉えていますと仰っていました。ちょっとびっくりする言葉ですね。
他にもお話しすればたくさんのキラッと輝く材料を提供することができるのですが、またの機会にしましょう。これからの一年間のわたしの説教への取り組みの中に、またわたし自身の歩みの中に、黙想会で見つけた材料を練り込んでいけたらと思っています。
今年の黙想会は、例年とは少し雰囲気が違っていました。2つ例を挙げますと、昼食と夕食に、例年よりも多くの神父さまが一緒に参加しておられたということです。長崎本土の神父さまは、希望すれば教会に戻って司祭館で食事をすることもできます。本土の神父さまが全員そのようなことをすれば、一緒に食べる人の数はもっと少なかったでしょう。
また、「今日は外で食べようかなぁ」というようなことを、これまででしたら割とおおっぴらにやっていたのですが、今年は本部事務局のたっての願いで、「みんなでカトリックセンターの食事を食べましょうよ」という意向になっていたのです。本心は、「たまには外食したいなぁ」と思っている方もおられたかも知れませんが、結構まじめに、カトリックセンターと大司教館を離れずにいたようです。
もう1つは、これもまじめに黙想会をしようとするなら当然と言えば当然なのですが、いろいろ用事を作って外出する人も少なかったのではないかと思います。たとえば、昼食後にわたしは時々気分転換をしにボーリングに行っていました。この点についても、本部事務局から、「黙想会に妨げとなるような行動は慎みましょう」と釘を刺されてしまったのです。わたしはボーリングですが、ある人はもっと小さい鉄の玉で楽しむ場所に行く人もいたわけで、こうした楽しみを慎んで、それはもうまじめ〜に、黙想会をしてきました。
さて、福音朗読に入りましょう。朗読箇所は、マルコによる福音の、過越の食事を通して、イエスが弟子たちに聖体の秘跡を制定される様子が描かれていました。今年の黙想会を終えてあらためてこの朗読箇所を読むと、わたしには「過越の食事」という意味合いがぐっと迫ってきます。
「過越の食事」というのは、説明なしで使われていますが、マルコ福音書の中では説明の必要がないのでこのような使われ方をしています。けれども、わたしたちには説明が必要でしょう。ここで言う「過越の食事」は、出エジプト記の出来事に基づいています。エジプト脱出の夜、イスラエルの民が小羊の血を家の入り口に塗ったことから過越の記念として食されました(出エジプト12:1-14)。出エジプト記12章によると、エジプト王がイスラエルの民をひどい扱いをしている中で、神はモーセを選び、エジプトに災いをもたらしてイスラエルの民を約束の地へと脱出させようとします。
エジプトには10の災いが降るのですが、その最後の災いが、人であれ動物であれ、初子が死ぬというものでした。小羊の血を塗った家は災いが過越ていきました。こうしてイスラエルの民は、モーセを先頭にしてエジプトを脱出したわけです。
この過越を経験した人々の子孫は、当時の出来事を思い起こし、物語るために、食事の形式を引き継いでいったのです。イエスの時代にも、忠実に受け継がれていて、弟子たちは過越の食事を準備する場所をどうするのか、イエスに尋ねたわけです。
イエスはもちろん、当時の過越の食事の形式を尊重しましたが、この最後の晩餐の中で執り行った過越の食事には、全く新しい意味が与えられることになります。エジプトを脱出した当時、それは現状の奴隷の軛からの解放であって、エジプトを脱出したからと言って救いにあずかったわけではありませんでした。
イエスも、過越の出来事を念頭に置いていましたが、イエスが残してくれた最後の晩餐は、ご自身のからだと血を裂くことによって、救いを与えるものとなったのです。現状からの解放だけではなく、決定的な救いにあずからせるために、イエスはご自身を過越の食事として与えてくださったのです。
そう考えるとき、イエスが用意してくださった過越の食事は、どこからどこへ過ぎ越すものであるかを、しっかり捉える必要があると思います。食事の形でイエスが残してくださったもの、つまり「聖体の秘跡」は、わたしたちをどこからどこへ過越させるものなのでしょうか。
「これが説明だ」と、1つの説明に縛り付ける必要はありません。決定的にわたしたちを過越させるのだと言えるその人なりの説明があればいいと思います。たとえば、罪深い生活から、罪を捨て神と向き合う生活に決定的に変わる。もちろん人間の力だけでは不可能ですが、聖体の秘跡はこのような過越をわたしたちにもたらします。あるいは、人を憎み、ゆるそうとしない姿から、憎しみを捨て、決してゆるせなかった人とも和解する。そのような過越を可能にしてくれるのです。
では、これほどすばらしい過越のためにイエスがご自分のからだと血を裂いてくださったのであれば、わたしたちはイエスの愛にどのように答えればよいのでしょうか。それは、イエスが用意してくださる聖体の秘跡に近づき、わたしたちも決定的に過越させてもらうことです。今週の「キリストの聖体」の祭日は、そのことを考えるまたとない機会です。
この喜びに、わたしたちは毎週招かれています。罪を自覚していてもそこから抜けられないわたしたちを、イエスはご自身が過越の食事となって決定的に過越させてくださるのです。日曜日ごとに繰り返されるみことばと聖体の祭儀は、わたしたちを決定的に過越させてくださる交わりの場なのです。
まずわたしたちは聖体の秘跡の力をよく理解して、なかなか足を向けない人々にも、また初めての人にも、宣教するきっかけにしましょう。わたしたちが聖体の秘跡の力をもっともっと感じるなら、宣教することは難しいものではなくなってしまうはずです。自信を持って、この一週間それぞれの生活に遣わされていくことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(マルコ4:35-41)
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