主日の福音09/05/17
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
イエスに友とされた者として生きる

先週、枝であるわたしたちは、ぶどうの木であるイエスにつながって、聖霊の息吹に養われながら、霊の実をつけるということを話しました。また、わたしたちの教会も枝であり、ぶどうの木であるイエスにつながって活動することで、イエスが現代にあっても豊かな実りを結ぶということも話したと思います。

今週、ぶどうの木であるイエスにつながっているわたしたちの姿をもう少し掘り下げてみたいと思います。先週もお話ししましたが、枝同士が自分の立場からものを見ると、わたしという枝と、正反対の方向に伸びている別の枝とは、似ても似つかない、共通点が見いだせない、協力できるはずがないと思ってしまいます。

ですが、キリストに養われている枝であるという意味で、わたしたちは協力し合える、理解し合えるということです。このことをイエスは今週の朗読箇所で次の言葉で言い表します。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(15・14)

基本的に友達になれる人というのは、自分と同じ価値観を持っている人です。自分と似たような境遇にある人にも親しみを覚え、友人のうちに数えることもあります。たとえば、体に故障が来て、手術しなければならなくなったとしましょう。

似たような病気の人が同じように手術を控えて入院していたら、これからのリハビリの時間もあるので、友達になって一緒にリハビリに励もうと思うでしょう。病院に入院して初めて出会った人ですが、病気が同じだったので友達になることができました。

また、日曜日のミサに、違う場所で参加したとしましょう。たとえば5月の第3日曜日は雲仙殉教祭のミサが行われますが、雲仙でミサに参加している人のほとんどは、初めて見る人かも知れません。

けれども、大司教様主司式のミサに参加して、「お互いに平和のあいさつを交わしましょう。主の平和」とあいさつを交わすときには、見知らぬ人と笑顔で平和のあいさつをするに違いありません。それが可能なのは、同じ信仰を持ち、同じカトリック教会のミサに参加しているからです。その日のミサの中で、あなたは誰とでも、友人として平和のあいさつを交わすことができるでしょう。

このように、わたしたちは共通の価値観を持っている人のことを、「友」として見ることができます。イエスはすでに経験したことのあるこのような体験を期待して、「友」という言葉でイエスという木につながっている信仰者のことを説明してくださったのです。「友」という言葉を生まれて初めて聞く人は誰もいないのですから、イエスは、誰にでもよく理解できるように、このような話し方をされたのでしょう。

ところで、イエスは弟子たちのことを「友」とお呼びになりましたが、「友」と呼ぶからには弟子たちに期待していることも何かしらあるのではないでしょうか。わたしたちが、「友」に期待するようなことを、イエスもまた弟子たちに期待するのは当然ではないでしょうか。

わたしたちは友人にふつうどんなことを期待しているでしょうか。困ったときに助けてくれることとか、同じ目標を目指して、お互いに励まし合うとか、過ちを犯したときに正直に間違いを指摘して諫めてあげるなどのことを期待するでしょう。「それでも友達か」と言われるようなことを慎むことも含まれるかも知れません。

イエスは弟子たちに、「あなたがたはわたしの友である」と言いました。まずイエスが、弟子たちの友となってくれたに違いありません。弟子たちの働きに力を貸し、弟子たちが行き詰まっているときには知恵を貸し、喜ばしいことがあれば一緒に喜び、悲しい出来事があればその悲しみを半分に分け合って、友として十分に支えてくださったに違いありません。

そこから、弟子たちは自分たちのなすべき事を学んだことでしょう。イエスを信じ、イエスの命じる掟を守る人々に友として接し、イエスがしてくださったように、新しくキリスト者となった人々の支えとなっていったのではないでしょうか。

そこで、わたしたちもイエスの呼びかけに向き合う必要があります。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」つまり、互いに愛し合いなさいというイエスの掟を守るなら、わたしたちはイエスの友となれるのです。

病院で同じ病気にある人と友情をはぐくむことができると言いました。同じ目標を持っている人とも、友人になれると言いました。そうであれば、イエスの掟を生き方の基本にしているキリスト者は、互いに友となれるはずです。

友は、相手を思いやります。わたしたちがミサに参加しているこの時間、同じく友であるあの人は、残念ながらミサに来ることができないかも知れません。その人のことを思い出してあげましょう。

食事をしている時間、友であるある国の家族は今日の食べ物に事欠いているかも知れません。その人のために、小さな募金箱を用意しましょう。この運動はすでに長崎教区では広く行き渡っていて、「一菜募金(いっさいぼきん)」と言っています。

同じ司祭の身分にあるあの人、同じ修道者の身分にあるあの人、同じ信徒であるあの人が、もしかしたら心を閉ざして暗闇の中にいるかも知れません。どうしてるかなぁと、その人のことを思い出したなら、祈ってあげるとか、電話やメールで連絡取るとか、訪ねてみるとか、いろんな方法で「あなたのそばにいるよ」と知らせてあげましょう。ずっとそばにいると知らせておけば、いつか心を開いて悩みを打ち明けてくれるかも知れません。

これらはすべて、友であるイエスが先にわたしたちのためにしてくれたことであり、わたしたちにも期待されていることだと思います。入院先の友達は同じ病かも知れませんが厳密にはわたしの病と相手の病は別物です。キリスト者同士はこの世の友とは違います。同じ一つの信仰で友となれるからです。他の友とは全く異なり、イエスを信じているという共通の土台に立って、物事を考えることができるのです。

わたしたちは、イエスに友としていただいたことを決して忘れてはいけません。決して忘れないしるしは、わたしたちが誰かの友となることです。イエスを信じているから、身近なあの人に力を貸そう。ずいぶん遠ざかっているあの人に、心の窓を開いておこう。わたしたちが動き出す力は、先にイエスによって友としていただいたこと、ここに力の源があるのではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
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