主日の福音09/05/10
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
だれもがイエスにつながれた枝とわきまえよう

復活節第5主日と第6主日は、福音朗読から見るとヨハネ15章の1節から17節を2週に分けて朗読している形です。ヨハネ15章1節から17節は本来ひとまとまりとして読むべきですから、説教も少し、そのことを意識して考えを巡らせるのが理想です。来週と、うまくつながるか自信はありませんが、できるだけそのつもりで考えてみたいと思います。

第一朗読では、使徒言行録第9章が選ばれ、サウロがバルナバの手引きで使徒たちに紹介される様子が描かれています。その際、サウロはすんなり弟子として迎えられたのではありませんでした。「その日、サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」(9・26)

彼がそれまでは迫害者であり、恐れられてもしかたない状況にあったことは皆さんも今年の黙想会で取り上げた内容ですからご存知です。それでもバルナバは、サウロを使徒たちのところに案内しました。

「バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」(使9・27-28)

この一連の様子は、非常に興味深いなぁと思いました。サウロは、みずからの体験によって、自分が間違いなく主イエスに呼びかけられ、ほとんど強制的とも言ってよいほどの迫力で、イエスのために働く僕とさせられたという自覚がありました。

一方エルサレムにいる使徒たちは使徒たちで、自分たちは3年間イエスと寝食を共にし、復活の出来事にも遭遇し、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)との使命を受けたのだという自覚と誇りがありました。

ところでこの両者が出会ったとき、「やあ、あなたもイエスの弟子として選ばれたのですね」とすんなりと互いを認め合うことができなかったのです。使徒たちはサウロを恐れ、信じようとはしませんでした。にわかには信じがたいと思っていたでしょうし、もしかしたら、信じたくなかったのかも知れません。

わたしはここに、ある意味で今週の福音朗読ヨハネ15章1節から8節の理解を深めるとっかかりがあると考えています。どちらも、確実にイエスの弟子だという自覚がある。それなのに互いが互いを認め合うことができなかった。さいわいにバルナバの執り成しがあったので両者は信頼しあえるようになりましたが、最初からそうだったのではないのです。

この第一朗読の出来事を頭に置いて、福音朗読と向き合うことにしましょう。イエスはご自身を、「まことのぶどうの木」としてお示しになります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15・5)

わたしたちは、イエスにつながっていると、実を結ぶと言います。確かに、ぶどうの木につながっている枝が、実を結びます。木に直接実がなるわけではありません。細くて、長く伸びた先の枝が、実を結ぶ場所です。

それはイエスとわたしたちの関係に置き換えると、イエスはわたしたちを、実を結ぶための道具として使っておられるということです。わたしたちのように、完全でもない、みずから栄養を与えて養うことすらできない存在に、実をつける役割を持たせてくださっているということです。

イエスからわたしたちに注がれているものはなんでしょうか。それは聖霊です。イエスは、わたしたちに聖霊を注いで、実をつける枝として養い続けておられるのです。この聖霊に十分に養われて、わたしたちはイエスの望むように実をつけ、イエスの喜びとなるのです。

ちなみに、わたしたちがイエスに望まれている実についても考えておきましょう。いろんな示し方ができると思いますが、ここでは聖パウロのガラテヤの信徒への手紙を例に挙げたいと思います。次のように書かれています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラ5・22)わたしたちがイエスに期待されている実りとは、このようなものです。この実りをつけて、収穫主であるイエスにお返しするのです。

ここまでは話を聞いて考えればなるほどとうなずけるかも知れません。問題が1つ残っています。使徒言行録の朗読に戻りますが、のちにパウロと呼ばれるサウロも、エルサレムの使徒たちも、イエスにつながっている枝であるという自覚と誇りがありました。

けれども、エルサレムの使徒たちは、誰もサウロを弟子だとは信じないで恐れたのです。イエスにつながっている枝には違いありませんが、互いが互いを認め合うことができなかったのです。

この時の摩擦は、はたしてその時だけのものでしょうか。ある人にとっては、自分たちは昔から教会の一員だけれども、あの人々を教会の一員だとは認めていない。受け入れていない。そんなことが現代でも起こっているのではないでしょうか。

だれもが、イエスにつながっている枝だという自覚があるのですが、それぞれの枝が、別の枝を認めることができないでいるのです。いろんな理由がそこにはあるのかも知れません。あの人たちに何ができる。わたしたちは寝食も共にしてきた者だ。同じ仲間だと言われても絶対に認められない。たとえばこのような思いが、心のどこかにあるのではないでしょうか。

問題を複雑にしている原因をはっきりさせましょう。原因ははっきりしています。1つの枝から、他の枝を見ているからです。自分という枝から、他の枝を見れば、かなり遠く離れている、もしかしたら正反対の方向に伸びているので、全く共通点が見いだせないかも知れません。どうしてこれだけかけ離れている相手を、仲間だと信じられるだろうか。なるほどそうかも知れません。

けれども、わたしたちすべてに聖霊を注ぎ、養っておられるイエスという木から枝を見ることで、すべては変わってきます。あの枝も、この枝も、もっと言うとすべての枝が、等しくイエスから聖霊を注がれた枝なのです。

わたしから見れば遠く離れているかも知れないその枝も、イエスという木から見たとき、だれもがほぼ同じ距離にあるのです。イエスが注ぐ聖霊の届くところに、すべての枝がつながっているのです。

サウロを信じないで恐れたエルサレムの使徒たちも、あとでは彼を使徒として受け入れ、自由に活動することができるようになりました。今日わたしたちは、ミサのあとに信徒総会を開きます。せっかく総会を開いて皆が一堂に集まるのですから、誰もが木であるイエスに養われている枝であり、互いに受け入れ合うべきだ。その気持ちを起こすきっかけにして欲しいと思います。

こうしてお互い生かし生かされる関係になったとき、ぶどうの木であるイエスは、馬込教会の信徒という枝を通して、豊かに実をつけることができるのではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(ヨハネ15:9-17)
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