主日の福音09/05/03
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
羊もわたしを知っている
連休中で、お出かけの人もいるかも知れません。それぞれの場で、日曜日のミサに参加することは、いつもと違う神の家族に触れる良い機会だと思います。
今日の福音朗読の中で、イエスはご自身を良い羊飼いとして示しています。そして、良い羊飼いの条件は突き詰めると「羊のために命を捨てる」この点に尽きると言い切ります。イエスが良い羊飼いの条件として示した「羊のために命を捨てる態度」を、今週はじっくり考えることにしましょう。
まず、イエスが用いられた言葉を確かめることから始めましょう。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10・11)イエスは「命を捨てる」と言いました。「捨てる」と聞くと、何か要らないものを処分するように聞こえるのではないでしょうか。どう考えてもそれは間違っていますが、では元の言葉はどういう意味があるのでしょうか。
興味深いのは、同じ部分を英語の聖書は「羊のために死ぬ」と翻訳しています。たぶんこの訳がいちばん素直な翻訳なのでしょう。日本語訳では「羊のために死ぬ」という表現からもう一歩踏み込んで、「羊のために命を捨てる」となったのでしょう。ここで言う「命を捨てる」というのは、「肉体の命に執着しない」「犠牲をささげる」ということを含んだ上での言い回しではないでしょうか。
元の言葉ではどんな表現になっているのでしょうか。ギリシャ語の聖書では、「命を置く」となっているそうです。この、ギリシャ語の表現に、「命を捨てる」という翻訳の元があるのですから、「命を置く」ということが何を意味するのかを考える必要があります。
考えるために、すでに分かっていることを思い出してみましょう。イエスが命を置いたのは、どこだったでしょうか。イエスは、十字架上で、ご自分の命を置いたのでした。また、イエスはなぜ、十字架上にご自分の命を置いたのでしょうか。これもはっきりしています。イエスは、全人類を救うために、十字架の上に命を置いたのです。
これらを確認した上で、わたしたちの体験を重ねて考えることにしましょう。わたしたちは何かを置いたり手に取ったりひんぱんに繰り返しています。そして大切なものを置くときには大切に扱い、ふさわしい場所に置くものです。貴重なものを床に転がしておく人は誰もいません。反対に、価値のないものを大切に飾ったりもしないのです。
イエスは、命を十字架の上に置きました。わたしたちの経験から考えると、命よりも大事なものはないのですから、命を十字架の上に置いたことを見逃してはいけないと思います。十字架は、命を置くのにふさわしい場所だったのでしょうか。価値ある物を置く場所としては、釣り合わないのではないでしょうか。
十字架そのものは、この世界でいちばん重い命を置くのにはふさわしい場所ではなかったかも知れません。けれども、別の見方もあります。イエスはかつてこのように言いました。「愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」(マタイ23・17)
十字架を清めるのはイエスご自身の命です。イエスが命を置いたことで、十字架の木はとうといものとなります。枯れた木に過ぎない人間に、イエスがご自分の命を置いてくださったことで、わたしたちはとうといもの、価値あるものとされました。イエスがこの世の象徴である十字架の上で命を置いてくださったことで、この世と、全人類は救われたのです。
ようやく、わたしたちはイエスが十字架の上で命を置いたことの意義と価値を見いだすことができました。イエスはご自分が引き受けた御父のご計画の深い意味を知っていました。わたしたちもわずかですが、イエスが十字架の上で命を置いてくださったことの意味を知りました。これで、イエスの次の言葉が成就しました。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10・14)
イエスは自分の羊、つまりわたしたち人間を知っています。熱心について行こうとするときがあるかと思えば、熱意を失って道を外れてしまう弱さを持っています。自分で道を外れておきながら、羊飼いであるイエスに探してもらい、連れ戻してもらわなければ、正しい道に立ち帰ることすらできないのです。時には悪い誘惑という狼の餌食になり、さんざん食い物にされて、信頼していた人にも裏切られたり、守ってくれるはずの人が自分を捨てて逃げていくこともある弱い存在です。
イエスは羊のように弱いわたしたちを知っています。けれども、わたしたちはイエスをそんなに知らないのです。イエスは、「羊もわたしを知っている」と言ってくれますが、イエスの信頼に、わたしたちは十分に応えていないのです。
イエスとわたしたちは、対等にお互いを知っているわけではありません。それなのに、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言ってくださいます。イエスの深い愛に感謝しましょう。わたしたちはイエスがわたしたちを知っているほどにはイエスを愛し返すことはできないのです。それを百も承知で、「あなたたちはわたしを知っている」と、勇気づけてくれるのです。
ここからわたしたちが考えなければならないことが見えてきます。わたしたちはイエスのことをそれほど知らないと思っているのに、「いや、あなたたちはわたしを知っている」と言ってくださるのですから、わたしたちが誰かの前に立たされたとき、「わたしはイエスを知らない」と言うべきではないのです。
むしろ、「わたしはイエスを知っている。なぜなら、イエスがわたしたちを知ってくださっているから」と言うべきだと思います。確かに何かを知っているのです。全く知らないわけではないのです。ですから、勇気を出して、「イエスは良い羊飼いです」と知らせましょう。
「イエスは良い羊飼いです」と言ったのですから、わたしにとってそれはどんな体験から確かなことなのかを付け加えましょう。こうしてわたしたちは、「わたしはイエスを知っている」という証しを立てることになります。
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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
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