主日の福音09/04/26
復活節第3主日(ルカ24:35-48)
聖書をひもとく人は、復活の証人となる

復活節第3主日は、長崎教区では1つの特別な意味を持つ日曜日です。毎年同じことが繰り返されているのですが、御復活の2週間後というのは、司祭の異動の日なんです。昨年もこの話に触れたと思いますが、わたしもこの復活節第3主日から馬込小教区での生活が始まりました。

もう少し異動の話をすると、今年は浦上教会、滑石教会という2つの大きな教会の主任司祭、助任司祭がすっかり変わりましたし、カトリックセンターで働く本部事務局長も交代となりました。大きな転勤だったと思います。これからどんな新しい風がわたしたちの教区に入ってくるのか、大いに期待したいと思います。

今日、福音朗読の中で私の目に留まった箇所は、最後の部分です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24・45-48)

この箇所を取り上げたのは、イエスがご自身の復活を弟子たちに説明するのに、(聖書に)「次のように書いてある」と仰った点が、興味を引いたからです。イエスは復活の出来事を弟子たちに悟らせるために、聖書を引用したのです。

別に気になる点などないと思われるかもしれません。けれども、復活したイエスは目の前にいるのに、出来事を悟らせるのに聖書に頼って説明しているのです。手と足を見せるとか、焼いた魚一切れを弟子たちの前で食べることで、目の前の弟子たちは十分理解できるのではないでしょうか。

この疑問を解決するには少し説明が必要だと思います。朗読された福音書はルカ福音書です。ルカ福音書の朗読に耳を傾けた人々は、ユダヤ教の教えを知らない異邦人でした。ルカ福音書の読者には、旧約聖書の予備知識は少なく、どんな小さなことでも聖書の知識から説明が必要でした。

ですから、ルカがイエスの復活を読み聞かせるとすれば、読者である異邦の民に分かるように説明をしなければなりません。そこでルカは、弟子たちに説明しているにもかかわらず、聖書の説明を土台にして復活の出来事を悟らせようとしているイエスの姿を描いたのでした。

もう少し加えるなら、イエスの最初の弟子たちと時代も場所も離れ、文化や歴史の土台も根本から違っているわたしたちにもイエスの復活を悟らせるために、ルカは聖書に書かれていることを根拠にして、出来事を解き明かすイエスを描くのです。この2000年代に生きているわたしたちのためでもあるのです。

このことから伝わってくるのは、イエスの復活は直接その時代に見た人たちだけが理解できるというものではなく、聖書を丹念に読み返すなら、聖霊に照らされて、あらゆる国、あらゆる時代の人々が理解できるものなんだよということです。イエスの復活は、わたしたちも聖書を丹念に開くなら、当時の人々と同じように悟ることができる神秘なのだということです。

この点に気づいたことは、わたしにとって大きな励ましとなりました。どこかでわたしたちは、イエスの復活を当時の人々のように大胆に証言するのはちょっと難しいのではないかとひるんでいるのだと思います。ひるんでいるだけではなく、「わたしたちはその場にいなかったのだから、当時ほど宣教が成功しなくても仕方がないよ」と思っているのではないでしょうか。

その、ちょっとしたあきらめと後ろ向きな態度に、ルカは釘を刺そうとしているのではないでしょうか。イエスの復活を今の時代に伝えるのは難しくて当然だとあなたは思っているのか。聖書に書いてあるではないか。聖書を丹念に読めば、今の時代でも十分に理解できる出来事ではないか。そんな励ましを与える朗読だなぁと思いました。

今週の福音朗読に耳を傾けた今、わたしたちには、受けた信仰をしっかりと生きて、告げ知らせる使命があることをあらためて確認したいと思います。イエスは復活の出来事を目撃した人にも、聖書を解き明かして復活の出来事を説明しました。わたしたちも、みことばの力に信頼して、勇気を持ってイエスの復活を告げ知らせる者になりたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
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