主日の福音09/04/19
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
週の初めの日、神のいつくしみを感じて

復活節第2主日は「神のいつくしみの主日」です。今年、「神のいつくしみ」をわたしたちが考え味わうために、「週の初めの日」に復活した主との出会いが繰り返されていることに注目したいと思います。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20・19)トマスがいない間に復活の主は現れました。週の初めの日の夕方でした。

ここにはトマスがいませんでしたが、次の「週の初めの日」、トマスも一緒にいた時にイエスが再び現れました。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20・26)この八日の後というのは、最初の出現と同じ「週の初めの日」を指しています。

イエスは「週の初めの日」をわざわざ選んで弟子たちに出現したとヨハネが書き残した狙いをまず考える必要があります。ヨハネ福音書が書き残された90年代、すでに迫害は現実のものとなり、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20・19)という様子は、使徒たちにだけ起こった過去の出来事ではなく、今いる信者たちにも同じように当てはまっていたと思われます。

そのことから想像できることは、使徒たちが恐れて家に閉じこもっている時イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」(20・21)と呼びかけたのは、単に使徒たちにだけ当てはまるのではなく、同じように迫害に直面していたヨハネの共同体も、復活したイエスが自分たちの共同体を力強く励ましてくださると受け取ったということです。

ヨハネの共同体が形づくられた頃には、安息日の翌日、つまり週の初めの日に、イエスを信じる者たちが集まっていたはずです。自分たちも週の初めの日に集まっている。迫害を恐れて、家に鍵をかけて集まっているかも知れないけれども、置かれている状況はかつての使徒たちと同じだから、わたしたちも復活の主に「あなたがたに平和があるように」と言ってもらえるのだ。そう言い聞かせていたに違いありません。

まずここに、神のいつくしみを見て取ることができます。イエスに選ばれた使徒たちは、失意のうちに家に集まっていました。その使徒たちをイエスはいつくしみで包んで下さいます。八日後の週の初めの日には、その場にいなかったトマスも含め、復活の主が大きないつくしみを示して下さいました。

その出来事を、ヨハネ共同体は自分のこととして受け止め、期待していたのです。自分たちも恐れてはいるけれども、週の初めの日に集まっている。わたしたちの集まる八日後にも、イエスはおいでになり、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるのだ。そんな期待に包まれて、迫害にさらされていたヨハネ共同体は神のいつくしみに触れたのだと思います。

ヨハネ共同体の体験は、2000年後のわたしたちにも受け継がれています。生活の中で挫折を味わい、信じていたことが裏切られ、これまでにない非難や無理解の中にさらされる。さまざまな辛い体験をして週の初めの日にここに集まっていると言えるかも知れません。だれも慰めることができない。だれも問題を解決できない。そんな人間不信の中で、心の戸に鍵をかけてここに集まっていると言ってもよいでしょう。そこへ、イエスが現れて、「あなたがたに平和があるように」と声をかけ、わたしたち一人一人にご自分のいつくしみを示してくださるのです。

ヨハネ福音記者は、「週の初めの日」に重ね合わせてイエスがいつくしみを示すという形にまとめています。週の初めの日に集まって賛美をささげているわたしたちに、かつてと同じように神のいつくしみが注がれることを期待することは、決して間違っていないと思います。

一つの疑問にも答えて、今週の説教を結びたいと思います。本当にわたしたちは、神のいつくしみを期待できるのだろうか、という点です。

この疑問に答えを見つけるヒントは、弟子たちが恐れに捕らえられて家の中にいたのを思い出せば十分だと思います。弟子たちは決して勇敢だとは言えない、普通の人々でした。

イエスと生活を共にしていた時に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)と言われて、ユダヤ人を恐れる必要はないと聞かされていたはずなのです。それでも、弟子たちは恐れに縛られていたのです。

それでも、イエスは弟子たちの恐れを吹き飛ばすほどの圧倒的な存在感で、弟子たちを喜ぶ人に変えたのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20・20)それはトマスも同じことでした。「決して信じない」とまで言った彼が、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と言ったのです。

恐れに縛られている人を自由にするのは並大抵のことではありません。恐ろしさのあまり腰が抜けた人を非難させるとか、行動に駆り立てることがどんなに困難か、十分想像できるでしょう。恐れている使徒たちをすら、イエスは喜ぶ人に変えたのです。これが、神のいつくしみの力だと思います。

復活の主は今も、恐れ、おびえて信仰を守っているわたしたちを喜ぶ人に変えます。自分が信仰を守ることでも精一杯なのに、信仰を子に伝えるとか、ましてや知らない人々に告げ知らせるなんて、夢のまた夢だとおびえている時に、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われるのです。

さらに、手とわき腹とを見せて、「あなたが伝えるべきものはこれです」と、指し示すのです。恐れで縮み上がっているかも知れないけれど、わたしがあなたの心を解き放ちます。喜びで満たします。だから、神のいつくしみがあなたの心に伝わった頃、あなたも次の人々に神のいつくしみを伝えてください。そう言っておられるのではないでしょうか。

復活の主が週の初めの日に繰り返し現れたこと、そして手とわき腹を見せてくださったこと。この2つはわたしたちに神のいつくしみを示すまたとない機会となりました。あなたが週の初めの日に来てくれるなら、必ずいつくしみに触れることができるようにして上げます。あなたにどんな過ちや裏切りがあっても、わたしはすでにこの傷によって受け止めたのだから心配しないでいい。そう言って、わたしたちを喜びで満たしてくださるのです。

週の初めの日が、2000年前から繰り返されています。神のいつくしみもまた、その時から決して無くなっていないことを今日のこの礼拝の中で確認しましょう。神のいつくしみを心に受けて、生活の場に持ち帰り、生活そのものを神のいつくしみが現れる場としていけるように、恵みを願いましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
‥‥‥†‥‥‥‥