主日の福音09/04/11
復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
復活した主は、先にガリラヤで待っておられる

主の復活、おめでとうございます。今年の福音朗読の中で、最後の箇所を取り上げて喜びの知らせとしたいと思います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(16・7)

主の使いである白い長い衣を着た若者は、はっきり2つのことを知らせてくれました。1つは「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16・6)ということ、もう1つは、「先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(16・7)ということです。

「復活して、ここにはおられない」と言います。復活とは、墓に決して縛られない状態を意味していると思われます。墓の中に入った時に、「ここにはおられない」と言われたからです。わたしたちの知識では計り知れないことが起こっているわけです。

わたしたちは、身近な人を失った時、時期を見て納骨します。お骨は、決して墓から無くなったりしません。場所に縛られているのです。自分でその場を離れることはないのです。そこからすると、イエスは墓の縛りから全く自由になっておられるということが分かります。復活とは、埋葬された場所を出て、墓の縛りから自由になった状態なのです。

神の使いの最初の言葉は、別の問題にも答えてくれます。その1つは、だれかが墓から、イエスの遺体を持ち去った、という考えを反駁します。もしだれかが、イエスの遺体を持ち去り、「あの方はここにはおられない」と言ったとしても、その遺体は別のどこかにあるはずです。そのような言い逃れでは、別の場所で相変わらずイエスは縛られていることになります。

もう1つの問題は、イエスは心の中で生き生きとよみがえったのだという考え方に反論します。心の中でよみがえったのだというなら、わたしの父も、今私の心の中で生き生きとその姿を思い出すことができます。

けれどもそのような言い方では、今どんな姿でいるのかに答えることはできません。わたしの心の中の父は、今日の父の姿ではないからです。イエスは、思い出としてよみがえったのではなく、今日も、明日も生きておられるのです。

さてそこで、主の使いのもう1つのメッセージが鍵になります。「先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」ということです。なぜガリラヤで会うことを復活したイエスは望んでおられるのでしょうか。

そこで、主の使いが言っているガリラヤとはいったいどんな意味があるのかを思い出したいのです。ガリラヤとはまず、大きな地域全体を言う言葉です。大明寺とか船津とか馬込とかの限られた土地を指すのではなく、言ってみれば伊王島全体をさすのです。

次に、ガリラヤの中にはいくつか出来事が思い出される土地があります。ガリラヤの町ナザレは、マリアが救い主誕生のお告げを受けた場所です。御子イエスがユダヤのベツレヘムで生まれてから、生活の場所にしたのもナザレでした。

別の出来事では、ガリラヤのカナで婚礼があって、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。あるいは、ガリラヤのカファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であったのをいやしてくださいました。ほかにも、「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ4・23)という出来事もありました。

何と言っても、ガリラヤ湖では漁師を弟子にして、最初の弟子を選んだ場所としてガリラヤは記憶されています。このように、イエスがおもに宣教活動をした場所、それがガリラヤという言葉で表される意味なのです。

そう考えると、復活したイエスが「ガリラヤに先に行く」のは、弟子たちをこれからの宣教に駆り出す大きな力になります。もちろん本格的な宣教は聖霊降臨の後でしょうが、ガリラヤに行けば、今日も明日も、生きてイエスに会える。出発点であるガリラヤに行けば、生きてイエスに会える。それが主の使いの言いたかったことではないでしょうか。

主の使いに促されて、弟子たちはガリラヤに向かったことでしょう。弟子たちが食事をしている時に、イエスは現れています(マルコ16・14)。これまでと同じように、今の弟子たちに声をかけ、これからすべきことについて指示を与えています。これは、復活して今生きておられるのでなければできないわざです。たしかに、イエスは復活して、今おられるのです。

弟子たちは、今生きておられるイエスと出会いました。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは、見える姿ではイエスと出会わないかも知れません。けれども、イエスが今のわたしに声をかけ、これから必要なことに指示を与えてくれるとしたらどうでしょうか。それこそ、イエスは復活して、今生きているという証しではないでしょうか。

今年、聖パウロ年を実りあるものにするために、わたしは「聖パウロの手紙を学ぶ会」を企画しました。これは、わたしの思い付きとばかりは言えないと思います。イエスがわたしたちに今足りないものを指摘して、これからどうすればよいかを指示してくださったのです。

わたしの思い付きで、ここまでの成功は得られなかったはずです。つまり、復活したイエスは、今生きて、わたしたちに話し掛けておられるのです。これからどうすればよいかについても、指示を与えてくれるのです。

一人一人、自分の生活を振り返ってみてください。わたしに、今足りないものを指摘してくれる声が聞こえてはいないでしょうか。そして、どうしなければならないかまで、わたしたちには見えているのではないでしょうか。それこそ、復活して今生きておられるイエスが、あなたの前にいて進むべき道を示しておられるのだと思います。

わたしたちにとっても、ガリラヤと言える場所があるかも知れません。イエスと出会い、イエスに導かれ、イエスと親しく過ごした場所です。その場所を思い出しましょう。そこに足を向けるなら、今もわたしたちはイエスに生きて会えるのではないでしょうか。

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」復活した主は、先回りしてわたしたちを待っておられます。生きておられる主の声を聞くことができるように、「イエスさま、わたしの心をあなたに向けさせてください」と祈ることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
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