主日の福音09/04/10
聖金曜日(18:1-19:42)
すべてを奪われたイエスによって人は救われた
本日聖金曜日の説教は、儀式書の規定にも「受難の朗読後、必要に応じて簡単な説教を行う」とあります。手短に述べたいと思います。
聖金曜日の儀式の始まりは、赤い祭服を着用した司祭が祭壇に一礼して床に伏すところから始まります。わたしは同じ動作を司祭叙階式の時に行いました。わたしはこの床に伏す動作の間に、ごく自然な流れで司祭叙階の時のことを思い出すわけです。
司祭叙階の時、わたしは床に伏して何を考えていたかと思い返してみると、何を考えていたかよりも、たしかに床に伏したこと、はっきり神さまの前にひれ伏したことのほうが印象深くなっています。人間が、大勢の目撃者の前で、床にひれ伏したこと、だれをもはばからず、人間がひれ伏す相手がここにおられるということを証ししたことが、意味深いことなのかも知れません。
このようなことを、今年の聖金曜日の始まりに考えて典礼に入りました。イエスは、十字架にはりつけにされ、ある意味ですべての人の前ですべてを奪い取られて無となりました。全人類よりも重い存在である神の独り子が、無にされたことを、わたしたちは見過ごしてはいけないと思います。
なぜ、全人類よりも重い存在である方が無となられたのか。それは、全人類を救うために他なりません。すべての人よりも低くへりくだったので、御父は御子のゆえに人類を救ってくださったのです。
わたしたちは昨日の聖木曜日の典礼の中で、イエスが身をかがめたことですばらしい模範を示し、神のわざが実を結んだことを学びました。今日も、イエスはこれ以上ないへりくだりを示しました。このへりくだった姿に、神のわざが実を結んだのです。
わたしたちの目には、すべてを奪われた、みじめな姿しか映っていないかも知れません。けれどもイエスは、このようにしてだれにも真似のできない忍耐を示し、最後まで柔和謙遜な生涯を全うしたのです。ここに、神のわざが実を結びます。
わたしたちは、イエスが命をかけて見せてくださった模範を受け取る必要があります。すべてを奪われたイエスに、全人類の救いという神の偉大なわざが実を結びました。わたしたちも、失うものは何もないというほどにへりくだった時に、わたしの上に神のわざが実を結ぶのです。
すべてを失ったイエスと自分を比べて、わたしはまだ何かを捨てきれずにいるのではないでしょうか。何かにしがみついているのではないでしょうか。イエスの他に、失うことを恐れるものはないのだと心に決める時、わたしは神の立派な器になると思います。イエスの歩みを、今日写し取って帰ることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
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