主日の福音09/04/09
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
イエスは今も「漁をしなさい」と呼びかけます

聖木曜日、主の晩さんを記念する日を迎えました。イエスさまが最後の晩さんの席で、御自分の体と血を、パンとぶどう酒の形のもとにわたしたちに与えてくださる聖体の秘跡が制定された夜です。

また、この聖体の秘跡は、「わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ22・19)と仰って弟子たちに引き継ぐことを命じてもいますから、必然的に司祭職の制定の日でもあります。この大きな恵みの夜に、学びの糧を得ることにいたしましょう。

今年、聖木曜日の典礼の中で考えたいことは、イエスが最後の晩さんの途中で、席を立ち、弟子たちの足を洗ってくださったことです。このイエスの振る舞いが示すいちばん目立った特徴は、「謙遜さ」だと思います。イエスの謙遜さが、弟子たちの足を洗う場面を成り立たせています。

足を洗うためにかがむ様子から、わたしは一つの学びを得ました。神さまのわざは、謙遜さを表す出来事の中に実を結ぶのかも知れない、ということです。その何よりの例は、イエスの御誕生の場面です。

神の独り子は、ほとんどだれにも知られることなく、家畜小屋で母マリアからお生まれになりました。この世の権力者の跡継ぎが生まれたのであれば、この世の人々は大騒ぎするのかも知れませんが、イエスは人知れずお生まれになりました。

イエスの誕生はすべてを知り尽くすことはできないような神秘だと思いますが、わたしたちが知りうる範囲の様子からすると、謙遜さが実を結んだ出来事でした。貧しさを受け入れ、この世の名声から遠く離れた場所でお生まれになった。それは、謙遜さの中に神のわざが実を結ぶという最高の例だと思います。

弟子たちの足を洗う今日の場面も、同じように謙遜な態度の中に神のわざが実を結んでいる好例ではないでしょうか。イエスが身をかがめなければ、今日の出来事は起こりえませんでした。ペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハネ13・8)と言ったのです。弟子の足もとに、師であるイエスが身をかがめることは、考えられないことだったからです。

ところが、この場面は弟子たちに多くのことを教えるすばらしい出来事となりました。つまり、謙遜さが現れている場面に、神のわざはみごとに実を結ぶということを弟子たちは学んだのではないでしょうか。

のちにペトロを含む多くの弟子たちは、殉教を遂げたり、立派に生涯を全うしていきます。殉教者たちは、いのちをもって謙遜さに神のわざが実を結ぶのだということを証ししていきました。イエスが身をかがめる姿、また弟子たちが殉教していった姿は、わたしたちに謙遜の大切さを教えてくれているのではないでしょうか。

そこで、わたしたちの生活の中で、謙遜さの中に神のわざが実を結ぶということをどうやったら体験できるのか、考えてみることにしましょう。2つの点で体験を積むチャンスがあると思います。

1つは、一人一人の具体的な生活の中での体験です。わたしたちは、ほかの人よりも多くゆるしてあげなければならない時があったり、ほかの人よりも多く与えなければならなかったり、あるいは忍耐しなければならなかったりすることがあります。どうしてわたしだけこんな思いをしなければならないのだろう、正直そう思うことがあるでしょう。

そんな一人一人にやってくる身近な体験は、神さまのわざが実を結ぶまたとない機会だと思います。ゆるし、与え、忍耐する時、いつも共にいてくださっているイエス・キリストも、ゆるすための愛を、与えるための力さを、忍耐するための寛大さを、あなたに注いでくださっているのではないでしょうか。

イエス・キリストがわたしたちに必要なものを注いでくださっているからこそ、今日までこれらのことができたのであるし、これからも可能なのだと思うのです。もし、イエス・キリストが共にいて、必要な恵みを注いでくださっていること、だから今のわたしがあると思えるなら、あなたの謙遜さの中に神のわざが大きな実を結んでいるのです。

もう1つは、秘跡に近づく中で、神のわざを体験できるのではないでしょうか。わたしたちは洗礼を受けて神の子、神の家族に加えられました。洗礼のために準備の勉強などをして洗礼を受けた人は特にそうですが、洗礼を受けたあの日、特別に謙虚な気持ちで迎えたのではないでしょうか。

また堅信の秘跡や婚姻の秘跡、あるいは中田神父は叙階の秘跡を受けたあの日、長い準備を振り返りつつ、謙虚な気持ちで恵みに浴したことを思い出します。つまり秘跡を受ける時、すべての人は自分の謙虚な態度の上に、神の偉大なわざが実を結んできたのです。

秘跡を受ける瞬間は、わたしたちの謙虚な態度の上に神のわざが現れる確実な場なのです。あの、身をかがめる中で表れた神の不思議なわざ、すべての人を謙虚な気持ちに造りかえる偉大な力を、わたしたちはイエスが弟子の足を洗う場面で見いだすことができます。

その同じ神の不思議なわざは、謙遜さを失わないならば、2000年を経た今、わたしたちの日常生活にも、秘跡にあずかる中でも、繰り返し確かめることができるのです。

謙遜さに、神のわざが実を結ぶ様子を、今日の洗足式を通して確かめましょう。どんな人にも、どれほどの罪人に対しても、神の偉大なわざが今も実を結ぶのだということを、全員確かめることができるよう、恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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