主日の福音09/03/08
四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
毎日の苦しみを背負う時、わたしたちは光り輝く

四旬節の第2週は、イエスの姿が変わる場面です。「変容」と言ったりします。今年は、黙想会をわたしがしようと計画していますが、イエスの変容の場面を、黙想会で学ぼうとしている聖パウロの回心と重ねて考えてみたいと思います。

イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9・2-3)とあります。この出来事は何かを言い表そうとしているのでしょう。まずはこのイエスの姿が変わったことを考えることから始めましょう。

考えるヒントとして、次の表現に注目しました。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」イエスの姿は、この世のものでは表現できないというのです。それは言い換えれば、天の世界に属する姿になったということでしょう。イエスの、地上とのつながりとは全く違う面を、弟子たちはかいま見たのでした。

ここでペトロが次のような提案をします。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(9・5)今目の前に広がっている光景は、天の世界とつながっている光景です。それをペトロは、地上につなぎ止めようとしてあくせくもがいたのでした。

もちろんペトロの試みは失敗に終わり、光り輝く姿も見ることができなくなって、イエスと弟子たちだけが残ります。天の世界につながる一瞬を見た弟子たち。そしてこの出来事を地上につなぎ止めようと試みて失敗しています。実はこの時こそ、発想を変えて、どうやったら自分たちも天の世界につながることができるだろうかと思いを巡らすチャンスでした。

イエスが天上の世界とつながっているのだと感じた輝かしい姿に、エリヤとモーセが現れています。この2人も、何かを象徴しているはずです。エリヤは、「苦しむ僕」として描かれる預言者です。また、モーセは、自分には重すぎると感じたイスラエルの民をエジプトから約束の地に連れて行く人物です。一方は、苦しむ僕を表し、もう一方は、使命に忠実な僕の姿が込められているのでしょう。

イエスは、この2人の人物を通して、ご自身が苦しむ僕であり、父である神の使命に忠実であるという両方の面を示してもらっています。そうであるなら、弟子たちが天上の世界につながる道は、苦しみを通っていくこと、与えられた使命に忠実であること、突き詰めれば、イエスに倣うことが必要なのでした。

それを証明するかのように、雲の中から声が聞こえます。これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9・7)イエスに聞き従うこと。イエスに倣い、苦しみを通って使命に忠実であるなら、弟子たちは天上の世界につながることができるのです。

弟子たちに求められていることは時代と場所を変えても当てはまります。つまりわたしたちも、地上にいながら、天上の世界につながることができるのです。それは、イエスの生涯に倣うことによってです。イエスが歩まれる、苦しみを担うことと使命への忠実をわたしたちが生活の中で担っていくなら、弱さの中にあるわたしたちも、天の国に結ばれるのです。

ここでほんの少しですが、パウロの例を紹介しておきましょう。黙想会の内容とも重なってくるので本当に少しだけにとどめますが、例えばパウロの決してくじけない態度は、イエスの生きざまを写し取っています。パウロは回心を経て、すぐに人々の前に出て「イエスはキリストである」と伝えました。人々はまだ、回心したというかつての迫害者を恐れて話に耳を傾けません。それだけでなく、自分たちの町から出て行ってほしいとさえ思っています。

宣教しようと人々の前に立つその度にパウロは拒否され、ある時は石を投げつけられ、町から町へと移動しなければならなくなります。毎回逃げるようにして新しい場所に移ります。それは、普通の人だったら絶望してしまうような状況です。

けれどもパウロは、その度に気持ちを切り替え、初めて宣教に行くかのような新しい気持ちで人々の前に立ったのです。どれだけ嫌われても、だれも理解者を得られなくても、それでもイエスを告げ知らせる場を探し求めていったパウロは、わたしたちの生きた模範だと思います。

わたしたちにも、あきらめたくなるような現実に立たされることがあります。どんなに親切にしても、お世話している人が心を開いてくれない。自分の言い方が悪いのかも知れないと思って黙っていると、無視していると勘違いされる。

いろんな時に、苦しみを経験し、自分の務めに忠実を尽くせないのではないかと絶望的になります。実はそうした場面こそ、わたしたちが天の国につながるチャンス、イエスの生きざまに自分を重ねて生きるまたとない機会なのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」わたしたちはこのような声を聞かないかも知れません。けれども、実生活であきらめずに何度でも出直して苦しみを担おうとするなら、何度くじけてもまた起き上がって使命に忠実に生きようと決意するなら、その時すでにあなたは「愛する子」として生きているのではないでしょうか。

苦しみを担い、使命に忠実に留まる姿は、見た目には輝きなどないかも知れません。ですが御父はそんなわたしたちに声をかけているはずです。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」そしてイエスは、日々十字架を背負って生きる姿に、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬ輝き」を見てくださっていると思います。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
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