主日の福音09/02/22
年間第7主日(マルコ2:1-12)
イエスとはっきり出会う場面に気づいていますか

わたしたちが自分の信仰に期待していることは何でしょうか。おそらく、「あー、カトリック信者でよかったなぁ」という瞬間をいちばん期待しているのだと思います。そして「カトリック信者でよかったなぁ」という体験は、おのずと「イエスと出会えてよかった」という喜びに目を開かせてくれます。では、「カトリック信者でよかったなぁ」という瞬間はどんな時にやって来るのでしょう。

すぐ分かるたとえは、よその教会のミサに参加したり、聖地巡礼に行って、あーこの信仰でよかったなぁと思います。あなたは日曜日に、旅行に出かけました。心がけがあるなら、「近くの教会はどこかなぁ。日曜日のミサは何時かなぁ」と考えることでしょう。

そして実際に教会に行くと、いつも自分が故郷の教会でミサに参加している時のように同じミサにあずかり、ちゃんと日曜日の務めを果たすことができます。そんな時、「あーカトリック信者でよかったなぁ」と感じるかも知れません。

皆さんがもしも聖地巡礼に行くなら、もっとカトリック信者でよかったなぁと感じることでしょう。聖ペトロ大聖堂とか、聖墳墓教会とか、ルルドなど、世界各地の有名な大聖堂で、日本にいる時と同じようにミサにあずかって聖体拝領をすることができるわけです。サンキューすら言えなくても、ローマで、エルサレムで、ちゃんとミサにあずかれるというのは、カトリック信者であることの恩典だと思います。

福音朗読に入りましょう。イエスは中風で苦しんでいる人に、「子よ、あなたの罪は赦される」(2・5)と声を掛けました。もちろん別の言い方で声を掛けることもできました。例えば、「子よ、あなたの病気は今取り除かれる」そんな声掛けです。ところがイエスが最初に掛けた声は、「子よ、あなたの罪は赦される」というものでした。

ちょっとしたことのようですが、違いがあると思います。当時は、「わたしが病気を治してあげましょう」と声を掛ける医者はたくさんいたのだと思います。例を挙げると、マルコ5章で登場する12年間出血が止まらずにいた女性は、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(5・26)とされています。お金目当てで、病気を治せない医者はたくさんいたわけです。

イエスが最初に、「子よ、あなたの病気は今取り除かれる」と声を掛けていたら、中風を患っている人はどう思ったでしょうか。またこの人も、金目当ての医者なのだろうか。そんな疑いを持ったかも知れません。病気を治すことだけであれば、イエスと中風の人とは単なる医者と患者の関わりしか生じないからです。

イエスはまず、「子よ、あなたの罪は赦される」と声を掛けました。律法学者たちがみごとに言い当てています。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(2・7)ここでイエスは中風の人と、まず神と人との関わりを築き上げたいと願っていたのです。

人々の前に引っ張り出され、恥ずかしい思いをして横たえられている病人に、イエスはご自分が罪に痛めつけられ、苦しんでいる人を癒す神なのだということを、何よりもまず示そうとされたのです。あなたは今、神の子・救い主と出会っているのですよということを、中風の人に伝えたかったのです。

大勢の人が集まる前で、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と声を掛けることにはもう一つの狙いがあるかも知れません。それは、そこにいる人すべてに、「あなたも今、神の子・救い主と出会っているのです」ということを伝える狙いです。

「イエスと出会えてよかった」その喜びは、神おひとりにしかにしかできないわざに触れることから生まれるものです。病気を治してもらうことは、きっかけにはなるかも知れません。けれども本質的には、イエスにしかできないわざ、罪の赦しや死と復活の出来事を通して、「イエスに出会えてよかった」と感じるようになるのです。

説教の始めに戻りましょう。日曜日のミサにあずかる時、「わたしたちはカトリック信者でよかった」と感じます。その時、「わたしは今、イエスに出会っている」または「イエスに出会えてよかった」という気持ちになっているでしょうか。それとも、ミサにあずかりながら、「カトリック信者でよかった」とは思っても、「いったいいつ、ミサのどの場面でイエスに出会っているのだろう」と考えているのでしょうか。

「ミサにあずかって、『カトリック信者でよかった』とは思うけれども、イエスに会っている実感は少しもない。それどころか、これまで何十年とミサにあずかってきたけれども、イエスに出会ったことはない」とここまできっぱり言い切る人がいるかも知れません。そう感じている人がいるなら、もしかしたらその人は、自分で言う通り、一度もイエスに出会ったことがないのかも知れません。

念のため、わたしが考えるイエスとの出会いのチャンスを示しておきたいと思います。「あなたの罪は赦された」という言葉を実感できるなら、その時わたしたちはイエスと出会っているはずです。罪の赦しは、神おひとりにしかできないことだからです。

ところで、ミサの中で司祭は、「全能の神がわたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように」と言っています。そしてその通りに罪が赦されるとわたしたちは信じ、「アーメン」と答えているはずです。そうであれば、わたしたちはその瞬間に、イエスと出会っているのです。

また、ミサの中で「主よ、あわれみたまえ」「キリスト、あわれみたまえ」と繰り返しますが、この場面でもイエスはわたしたちにあわれみを示すためにそこにおられるはずです。ほかにも、「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えます。これは単なる気休めでしょうか。たしかにあわれみをかけてくださると信じて唱えているはずです。ここにも、イエスとのたしかな出会いを感じるチャンスがあります。神の子、イエス・キリストにしかできないことに立ち会っているからです。

そして何よりも、パンとぶどう酒のうちにイエスがとどまって、わたしたちの食べ物となってくださる聖体祭儀の場面には、これ以上ない形でイエスが現存してくださっています。死んで、復活し、わたしたちを救ってくださるのは、神の子、イエス・キリストしかなし得ないわざだからです。

これらを重ね合わせると、十分わたしたちは、「イエスと出会っているんだ」「イエスと出会えて幸せだ」この喜びに導かれることができるはずです。ミサにあずかる中で「カトリック信者でよかった」と思っている。それはもっと深く掘り下げると、「イエスに出会えてよかった」と実感できるまたとないチャンスなのです。

わたしたちは、ミサという大きな恵みの場をカトリック信者として与えられています。カトリック信者でよかったと、素直に思える場だと思います。ぜひそこから、「自分はここでイエスと出会えているんだ」この実感にも導かれてほしいものだと思います。「カトリック信者でよかった」その喜びは、「イエスと出会えてよかった」という体験につながってこそ本物になるのです。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
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