主日の福音09/02/08
年間第5主日(マルコ1:29-39)
「隠れた祈り」をたやさないように

昨日土曜日は高島教会の信者さんの葬儀ミサ、また大明寺教会の信者さんの通夜が入りました。高島教会の信者さんの通夜と葬儀は高島教会出身の神父さまが引き受けて下さり、わたしとしては本当に助かりました。

土曜日にこうした務めを果たすことになると、説教の準備は困難を極めます。何を話そうか、少しは考えがあるとしても実際に原稿を準備するのはほとんどが土曜日です。その土曜日に何かが重なると、当然時間が少なくなるわけです。

どうしても書き始めることができずに1時間2時間と時計が進むものですから、気持ちを切り替えようと思ってお風呂のお湯をため、ゆっくり浸かってみました。すると不思議なことに、昔五右衛門風呂に入っていた30年くらい前のことを思い出しました。

わたしにとっての五右衛門風呂の経験は2通りあります。1つは、実家での体験で、これは親子で入ったり兄弟で入ったりといった楽しい思い出なのですが、わたしにはもう1つの思い出があって、母方の祖父母の家に泊まった時の五右衛門風呂の経験です。ここでは、一定の時間入るための工夫として、祈りをさせられたのでした。わたしが当時唱えた祈りは、「天使祝詞」つまり「めでたしの祈り」です。

実際に「めでたしの祈り」を何遍唱えながら風呂に入らされたのかは思い出せないのですが、外では祖母が薪をくべながら、「聞こえるようにお祈りしなさい」と言っていたような気がします。幼い頃の記憶なので詳しいことは思い出せませんが、風呂に入りながらの祈りは相当堪えました。昨日はその当時の様子を懐かしく思い出しながら、「主の祈り」「聖母マリアへの祈り」などを唱えつつ風呂に浸かっておりました。

何でもない日常の出来事なのですが、昔の人はどんなことにも生活と信仰を結び付ける工夫があったなぁと感心します。特に母方の祖母は、わたしのいちばんの祈りの教師でした。

山を1つ越えて祖父母の家に行ったり、また実家に帰っていく時に、1歩1歩踏みしめながら「めでたし、せいちょう」と唱えて歩けば歩きながら祈りができると何度も聞かされました。

暗い夜道を、祈りながら歩くと、暗闇の怖さもなくなると信じて、真剣に祈って歩いたことがあります。また「めでたし」を3回とか5回とか唱え終わるまで五右衛門風呂に浸かっていなさいと言われれば、どんなに熱くてもがまんして「めでたし」を唱えていたものでした。

大学3年生になるまで祖母は生きていましたが、小学校しか行っていない祖母に、生活の中に祈りを練り込んで生きる知恵をさまざまもらったことを感謝しています。今でも祖母はわたしの心に、忙しい生活の中でどうやって貴重な時間を祈りに当てるか、話し掛けてくれている気がします。

さて朗読された福音書は、イエスがとても忙しく活動し、その中でも祈りを忘れない姿が描かれていました。昼間、イエスの一行はシモンとアンデレの家に行き、シモンのしゅうとめの熱を取り除いてあげました。その後も、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出しています。それも、夕方、日が沈む頃までです。イエスの時代に伝記はなかったわけですから、そう考えるとイエスの活動は働ける時間のすべてを働き通した、フルタイム勤務の連続だったわけです。

それでも、どんなに時間を取られても、イエスは祈りの時間を犠牲にしなかったことが分かります。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(1・35)

日が沈む時間まで、人々は病気にかかっている大勢の人を連れてきたのですから、あまりの忙しさに祈りの時間は見つけられないほどでした。弱いわたしたち人間は、そこまで忙しくなるとつい祈りの時間を犠牲にしてしまいがちです。ところがイエスは、祈りの時間を別に取り分けて、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所へ出て行き、そこで御父に祈っていたのです。

これは何を意味しているのでしょうか。いろいろ考えられると思いますが、まずは1人きりになって祈る時間の大切さを教えていると思います。だれにも気兼ねせず、1人になって、御父に今の自分のすべてを打ち明ける。そういった祈りを、イエスは朝早くまだ暗いうちに、捧げていたのではないでしょうか。

またイエスの祈りは、人里離れた場所で行われていたのですから、隠れたわざと言ってもよいでしょう。それはイエスが繰り返し言われた「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6・4)ということの実践です。

隠れたわざを考えるのにわたしがもっとも適していると思うのは、「氷山」の様子です。皆さんよくご存じのことですが、「氷山」はその塊のほとんどが海中にあって見えません。表に見えているのはたったの10分の1だけです。ゆっくり動く氷山を見て、だれも目に見える部分だけ考える人はいないわけです。残り10分の9が海中にあって、ゆっくり動いている。だから、氷山の動きはゆっくりであっても力強さを感じさせます。

このように、祈りはある意味で人間生活の「隠れたわざ」なのだと思います。人前で見せる祈りの時間を、多くの人はそれほど持っていないはずです。朝起きてから寝るまで、ほとんど仕事や人付き合いに忙殺され、振り回されている。そんな中で、人里離れた場所で祈るイエスの姿は、わたしたちに隠れた場所で祈ることを強く勧めているのではないでしょうか。

わたしは昨日、お風呂に入って祖母のことを懐かしく思い出しながら、わたしにとって隠れた場所、隠れた時間というのはこういう時間なのかなぁと思ったのでした。

皆さんにとっても、家族の生活、団体生活、近所づきあいをしている中で、それでもなお、「隠れた時間」「隠れた場所」がどこにあるのかを考えておくとよいと思います。どうしても祈れない時、わたしにとっての隠れた場所、隠れた時間があるなら、そこに行くことで少しは祈ることができるかも知れません。

隠れた場所、隠れた時間は、何も消極的な意味ではありません。人々には隠れていますが、神の前にはいちばん開かれた場所なのです。だれも入り込まない場所と時間だからこそ、神とだけ親しく話すまたとない機会となります。そんな場を確保しておくこと、確保する努力を惜しまないことが、今週わたしたちに問いかけられているのだと思います。

祈りが終わる頃、シモンとその仲間がイエスの後を追い、見つけると「みんなが捜しています」と声をかけました。また1日フルタイムの激務が始まります。それでも、イエスは1人きりで祈ったことが雄大に移動する氷山の「隠れた部分」となって、激務を支えます。わたしたちも、わたしを支えているのはわたしの力ではなくて、日常のちょっとした祈り、隠れた祈りが見えない神の支えとなっていることを忘れないようにしたいものです。
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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
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