主日の福音09/02/01
年間第4主日(マルコ1:21-28)
わたしたちはいつ、毅然とした態度を取るのでしょうか

昨日始まった「聖パウロの手紙を学ぶ会」は、予想を大きく上回る参加者で、ひとまず安心しました。25人以上の参加は、正直、驚いています。大明寺教会も馬込教会も25人以上来ていました。大きい声では言えませんが、皆勤賞の人には大型聖書にサインをしてプレゼントしますって言いましたよね。この調子でずっと参加して、みんなが皆勤賞だったらわたしの財布は・・・と思ったりもしました。まあ、その日が来てないので、今からそんな心配はしないでおこうと思います。

また、直接「聖パウロの手紙を学ぶ会」に参加できなくても、聖パウロ年のこの機会に、家庭で新約聖書を読んでみるということも大変すばらしい取り組みです。ざっと数えると480頁のようですので、1日3頁ずつ読むと、6月29日の聖ペトロ聖パウロの祭日までには確実に読み終えることができると思います。それぞれ、目標を持って聖パウロ年を過ごしていきましょう。

さて今週の福音朗読は、イエスが会堂で汚れた霊に取りつかれた人に命令して、汚れた霊を追放するという場面でした。まず、イエスが「黙れ。この人から出て行け」と厳しい口調で命令する様子が目を引きます。イエスが「黙れ」というようなきつい言葉を使うのは、汚れた霊を追い出す今日の場面と、湖で嵐を沈める時に言う「黙れ、静まれ」(マルコ4・39)という場面だけです。

このイエスの態度には、汚れた霊が人間を支配することを決してゆるさないという毅然とした態度を読み取ることができます。わたしたちもある場面では厳しい態度、毅然とした態度を取ることがあるでしょう。

例えば子どもが自分のわがままを通そうとして親を困らせる時、それが決してゆるしてはいけない身勝手な態度だと感じたら、親は毅然とした態度で臨むと思います。それを見た子どもは、これは絶対にゆるされないことなのだなと感じるわけです。わたしも、信念を曲げたくない場面では毅然とした態度を取ります。それは相手にはっきり自分の意志を伝えるためです。

イエスによって追い出される汚れた霊は、人間の中に入り込んでこの世を支配しようと企んでいます。人間がこの世の支配者であれば、人間を支配すればこの世を支配できるからです。けれどもイエスは、その企みを決してゆるしませんでした。

人間は、神に心を開き、神の教えに耳を傾ける時、初めて人間らしく生きることができます。汚れた霊はそれを邪魔しようとしていたのです。ただ単に人間に入り込んだだけではなく、神に従うべき人間の本来の姿を混乱させようとしていたのです。

イエスはそれを決してゆるしません。だからこそ、「黙れ。この人から出て行け」と厳しい態度に出るのです。そうしなければ、悪霊はこの世界の支配をあきらめないからです。イエスの毅然とした態度は、悪霊の望みを完全に打ち砕き、あきらめさせるものでした。最後のあがきで取りついていた人にけいれんを起こさせますが、まったく無駄なことでした。

今日の出来事でわたしたちが学べることは何でしょうか。それは、「わたしたちも、イエスを信じる者として、毅然とした態度を取らなければならない」ということです。ではそれはいつしなければならないのでしょうか。

3つの場面を考えてみました。1つめは、公の場所です。2つめは、個人的な場所です。3つめは、自分の内面においてです。それぞれ、考えてみましょう。

イエスが汚れた霊に取りつかれた人と出会って、霊を追い払ったのはカファルナウムの会堂においてでした。会堂、それは大人のユダヤ人だれもが集う公の場所です。わたしたちにとってそれは、信徒会館であったり、日曜日に集まっている教会と考えてよいでしょう。または仕事先や、外出先でも構いません。

こんな場所で、毅然と、イエスを信じる者として振る舞います。イエスに反対する力に負けてはいけません。ここで毅然とした態度を取ることで、イエスの力を行き渡らせます。汚れた霊の支配に流されるのではなく、イエスの支配を行き渡らせるのです。

また、わたしたちの生活には個人的な場所があります。家庭であったり、自分一人になれる時間や場所です。個人的な時間は特に、自分の思い通りにしたいと思っているはずです。けれどもその思いが隙を生じさせ、イエスに反対する考えや思いを招き入れる危険につながります。

わたしたちはこうした誘惑に対して、毅然とした態度を取らなければなりません。個人的な時間、プライベートな場所で、自分が自分の支配者だと思ってしまうこと。それこそが、イエスに反対する勢力の思うつぼなのです。むしろ、個人的な時間にイエスの支配を行き渡らせるほうが、平和と自由を味わえると知りましょう。

最後に、わたしの心の中、内面を考えてみましょう。わたしの心の中での戦いは、公の場でも、個人的な場所でも生じることがあります。だれにも見られることのない場所ですが、自分だけは、わたしの心の中を何が支配しているかを知っています。そしてその状態を、他人に対して偽ることもできます。

例えば、心の中に争いや怒り、ねたみや傲慢を抱えているとしましょう。それはまさに、汚れた霊に支配されている状態です。それなのに、人に対しては親切にしたり、忍耐強くいることもできます。心の中はイエスに反対する思いでいっぱいなのに、まるで落ち着きを保ち、平和であるかのように振る舞うこともあります。

そんな時、わたしは自分の心と向き合って、はっきり言わなければなりません。「黙れ。出て行け」。わたしの中に不満や怒り、いらだちが満ちているなら、そのような感情に自分を支配させてはなりません。本当の平和を保ち、柔和で落ち着いた心でいられるために、わたしはイエスの支配を待ち望む必要があるのです。

まとめると、わたしは今日イエスが汚れた霊を追い出したように、自分の生活のあらゆる場面でイエスに反対する力を追い出す必要があるということです。どこかで、「これくらいはいいだろう」とか「これはイエスに逆らっているとまでは言えないから」と妥協すると、いつの間にかわたしの生活にイエスの支配でないものが入り込み、問題を起こすことになります。

そうではなく、いつでも「黙れ、出て行け」と、毅然とした態度でいたいものです。この毅然とした態度が、周りの人と社会にイエスの支配を、神の国の完成を広げていきます。イエスが発した「黙れ。この人から出て行け」を、わたしたちも今の時代に受け継いで生きていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マルコ1:29-39)
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