主日の福音09/01/18
年間第2主日(ヨハネ1:35-42)
本当につながるべき相手はイエス・キリストです

今週はまず第1朗読から話を始めたいと思います。サムエル記の主人公である少年サムエルは、神殿で寝起きして祭司エリに仕えていました。その少年サムエルが、眠っている間に主に呼ばれます。主に呼ばれ、将来の預言者に向けた導きが始まっていく、その最初の出来事が今日の第1朗読でした。

少年サムエルははっきりと自分に呼び掛ける声を聞いたので、祭司エリのもとに行って、「お呼びになったので参りました」と祭司に答えます。もちろん祭司エリは少年を呼んでないのですが、おもしろいなぁと思ったのは、ひと晩で3回も、「お呼びになったので参りました」と祭司のもとに行くわけです。私が祭司だったら、「いい加減にしてくれ。寝られないじゃないか」と言いたくなります。

それに、ひと晩で3度ぐっすり眠って、声を感じてその度に祭司のもとに出向いたわけですよね。起こされてまたぐっすり眠って、起こされてまたぐっすり眠ってと、そんなに切り替えができるものなのかなぁと変な所で感心しました。あまり妙なことが起これば、眠れなくなるのではないかと私などは心配するのですが、少年はすぐに眠りにつくのだなぁ、羨ましいなぁとか思ってしまいました。

さてサムエルが、主の声を聞いて祭司エリのもとに行ったのは、ただの勘違いとも言えないと思います。少年サムエルは、神殿で祭司エリにお仕えして暮らしていました。祭司エリは、言わば親代わりであり、サムエルにとって離れてはならない相手だったのです。いつも祭司のそば近くで仕えて、祭司エリとの深い絆を感じていたわけです。

もちろん祭司エリも、そんなサムエルの気持ちを知っていたでしょう。少年の心が祭司に固く結ばれていることを再確認したと思います。けれども最終的には、祭司エリは少年サムエルをお呼びになったのは主だと理解しました。そこで彼は、人間である自分との絆よりも、主との絆を理解させ、主に固く結ばれるよう優しく導いたのです。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」(サムエル上3:9)。

私はここに、祭司エリの優れた素質を感じました。起こっている出来事を正確に読み取り、目の前にいる少年にいちばん必要な指示を的確に与える。これは優れた指導者、賢者でなければできないことです。もっと言うと、祭司エリを優れた指導者となるよう導いた主である神の働きに、圧倒されてしまいます。

優れた人というのは、たまに優れているのではなくて、やはりその人全体が優れているのだと思います。たまたま人の心の中にあるものを言い当てたとして、その人が優れているかどうかはまだ分かりません。すぐに化けの皮がはがれることもあるでしょう。その全体が優れているという指導者に少年サムエルは巡り会い、彼から全宇宙の指導者である主へと導かれていったのでした。祭司エリに固く結ばれた少年を、さらに大きな方との絆に入るように促したことで、祭司エリは真の賢者だったのです。

この第1朗読の流れは福音書につながっています。洗礼者ヨハネは自分の弟子であった2人を、イエスへと向かわせました。ヨハネの2人の弟子は、ヨハネに固く結ばれていたはずです。もしヨハネが頑なな人であったなら、「お前たちはまさかわたしを捨てないだろうな」と言って脅したかも知れません。

けれどもヨハネは、真に偉大な預言者でした。自分に固く結ばれていた弟子を、イエスに向けさせるのです。「見よ、神の子羊だ」(ヨハネ1:35)。2人の弟子は戸惑ったことでしょう。「自分たちがイエスという人のもとに行けば、先生のもとを去ることになる。本当にそんなことをしていいのだろうか」そんな迷いがあったのではないでしょうか。

2人はヨハネへの未練を残しつつ、イエスのもとを訪ねます。そしてイエスの魅力をすぐに理解し、イエスのもとに泊まるのです。2人はイエスの偉大さに惹きつけられると同時に、自分たちをイエスのもとに向かわせた洗礼者ヨハネが真に偉大な預言者であったことをあらためて知ったことでしょう。

イエスという、本当に結ばれるべき相手を知りながら、その邪魔をするなら、その人は真に偉大な人物とは言えません。真に偉大な人は、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(ヨハネ3:29)ときっぱり言える人なのです。

祭司エリ、洗礼者ヨハネという偉大な指導者のことを話しながら、私は1つのことを思い出しました。滑石教会から転勤となって太田尾教会に異動になった時のことです。私が教会の役員たちと一緒に苦労した時間を思い出してくれて、自分と離れなければならないことを思って婦人会の方が涙してくれました。その時私はこう言ったのです。

「ありがとう。わたしのことをそんなに思ってくれるのだったら、次にやってくる神父さまに、わたし以上にお仕えしてくださいね」。その婦人会の方は、わたしが転勤した後に婦人会長になって、あとでこんなに言ってくれました。

「神父さま、神父さまに言われたことはちゃんと守っていますよ。今の神父さまに、今まで以上に協力していますから、安心してくださいね」。その言葉を聞いて、私はほんのちょっとだけ、洗礼者ヨハネと同じような使命を果たせたのかなと思いました。

本当に結ばれるべき相手がイエス・キリストであると知っている人は幸せです。祭司エリの中にその種が見られますし、洗礼者ヨハネは明らかにイエス・キリストこそ栄えるべきであり、自分は衰えねばならないと知っていました(ヨハネ3:30)。イエスの弟子となっていく2人も、イエスを知れば知るほどヨハネの偉大さが分かり、自分たちはイエスに結ばれるべきであると確認します。

それぞれの生活で、だれもがイエスこそ自分が結ばれるべき相手なのだと知る必要があります。自分自身をイエスに結び付けなければなりませんし、それと同時に、身近な人が、イエスに結ばれるようにお世話する必要があるのだと思います。

人をイエス・キリストに結び合わせるということについて、私は1つの機械作業を見て、はっとさせられたことがありました。その場面を紹介して、今週の説教の結びとしたいと思います。それは、金属の水道管をつないでいる作業を見た時でした。ステンレスの水道管だったかなぁと思うのですが、最初はまったくつなぐ部分のない水道管に、ねじ切りの機械を当てて溝を切っていくわけです。そうやって2本の金属管を、小さな継ぎ手でつないでいました。

一見なんでもない作業のようですが、私はその一連の作業を見てほとほと感心しました。まったくつながるはずのない2本のステンレス管が、機械で溝を切って、小さな継ぎ手でつながっていくのです。そして私は知らないおじさんがそういう作業をしているのを見て、心の底からこう思いました。「わたしは、ステンレス管をつないでいる継ぎ手になりたい」。

ステンレス管は、普通であればどんな接着剤を使っても簡単につながるものではありません。溝を切って、その溝にピッタリ合った継ぎ手を用意しなければ、つながらないのです。また、完全に適合した継ぎ手でなければ、水が漏ってしまうでしょう。

あんなに簡単に、溝を切って継ぎ手でステンレス管をつないでいる様子を見て、私は感動しました。私もあの継ぎ手になりたいと思います。小さな道具ですが、それがなければ絶対に2本のステンレス管はつながらないのですから、かけがえのない物のはずです。そのように、私は信者のみなさんと神さまとをつなぐ継ぎ手でありたいと思いました。

自分は、信者のみなさんに、どこにつながるべきかをはっきり示す役割がある。その役割に徹しなければならない。そう思ったのです。特に、信者のみなさんと神さまとの間に溝を切って継ぎ手でつなぐ部分は、この建物としての教会であり、ミサだと思います。教会でのミサを通して、私はみなさんを神さまとつなぐ。そのために自分は小さな継ぎ手でありたいと、心から願いました。

だれもが、本当につながるべき相手はイエスであると知る必要があります。自分自身が、イエスにつながろうと懸命に努力して生きるべきですが、あわせて、周りの人を、イエスにつながるように手を貸してあげましょう。あなたが、だれかの継ぎ手になって、周りの人を神さまに堅く結び付ける人となれるように。今日そのためにミサの中でお一人おひとりのために祈りたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
(本年に限り)
聖パウロの回心
(マルコ16:15-18)
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