主日の福音09/01/11
主の洗礼(マルコ1:7-11)
洗礼によってイエスは最後の水まで清めた

「主の洗礼」の説教を、うんうん唸って、もだえながら考えていたのですが、あーこれはいいかもしれないなぁと思ったことを眺めてみたいと思います。洗礼に水が用いられているという点にもう一度じっくり目を向けた時、何かしら響いてくるものがありました。

「水」の基本的な性質は、「高い所から低い所へ流れる」ということです。この原則は、人が無理矢理に何かの細工をしない限り変わることはありません。今日馬小屋に、1つの絵を掲げてみました。本当は、ここに1メートルちょっとの大きさの御像を置く予定でしたが、今年の「主の洗礼の祭日」に完成できませんで、来年の同じ祭日にはお見せできると思います。

この御像の写真はまさに、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けている場面ですが、イエスの頭に水が注がれています。ここにも、私たちがよく知っている水の姿、「高い所から低い所に流れる」その特徴が現れています。

また、水はものを洗い清めますが、私たちの経験によれば、ものを洗う時はよごれの少ないものから洗い始めて、だんだんよごれのひどいものへと使われていきます。川が流れる土地では、水はまず飲み水に使われ、それからちょっとした洗い物に使い、いろいろ使い回された最後の水を、洗濯に使っていました。洗濯は、最後の最後に、水を使い切る手段だったわけです。

イエスは洗礼者ヨハネから、水による洗いを受けました。洗う必要のあるよごれなど、これっぽっちもなかったのに、水による清めを受けました。何も清めが必要でなかったのに、イエスはヨハネから洗礼をお受けになりました。私はここで、イエスが水のどの部分にいたのだろうかと考えたのです。

先に話したように、水で何かを洗い清めるには、順番があります。よごれの少ないものから始まって、最後の最後、いちばんひどいよごれ物を洗い流すのです。では、イエスの思いの中で、ヨハネから受けた水は、どのあたりを意識して受けたのでしょうか。

私はこう考えます。イエスは、最後の最後、いちばんひどいよごれの物を洗い流す水を意識して、洗礼をお受けになったのではないか。そう考えたのです。つまり、イエス自身は一切清めが必要なかったのであり、清めが必要だったのは、むしろ水のほうだったということです。

これから水と聖霊によって多くの人が洗礼を受ける。その水を、全世界の水を、今ヨルダン川の水に代表して、清めるためにこの洗礼の場においでになった。聖霊と水による新しい洗礼によって、もともと心の清い、ほとんどけがれに染まっていない赤ん坊に始まって、社会のドロドロした場所に浸かってその後に導かれて洗礼を受ける人々に至るまで、すべての人を洗い清める洗礼の水となるように、イエスが洗礼を受けることで全世界の水を清めた。私はそう考えたいのです。

そのように考える時、イエスがヨハネから受けたその水は、けがれに染まっていない赤ん坊を清めるきれいな水だけではなく、ドロドロによごれきった人間関係の中にあった人を清める最後の最後の水でもあったと考えることもできます。イエスは、この水は最初の頃に使う水だけではなく、最後の最後の水としても、人々を洗い清めるのだと、そういう意識で洗礼をお受けになったのではないか。そんなことを考えたのです。

イエスは、洗礼を受け、水の中から上がる動作をなさいます。最後の最後に使う水まで降りていって、そのいちばんよごれたものを洗う水の所まで行って、そこから上がってきて、いっさいの水を清めた。最後の最後、その場所にも罪の闇にある人間がいることでしょう。そこへもイエスは降りていって、人間を救うために、聖霊と水による洗礼を用意してくださるのです。

水から上がってくる時、すべての水、いちばんひどいよごれを洗う水さえも意識して、すべての水から上がってきた。そこへ天からの声が響きます。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」(1・11)。

イエスは、水が流れていってたどり着く最後の最後まで沈められてそこから上がってきたので、御父に愛される子であると思います。すすぎも要らない、軽く流すだけできれいになる場所だけを見てきたのではなく、もはや清められることなど不可能と思われるような場所まで、イエスは降りていって救いの手を差し伸べ、上がってこられたのです。それはつまり全人類を救う場所まで降りていったのです。だから、御父に愛されるのだと思います。

イエスが洗礼者ヨハネから受けた水は、「上から下に流れる水」でした。当たり前のようですが、実は当たり前ではありません。いちばん最後の、最後に流れ着く先まで降りていって、その水を清めてから上がってこられたのです。ですから、イエスが残してくださった聖霊と水による洗礼を受けた人は、どんな人であれ、どんな過去があったとしても、必ず救われるのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
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