主日の福音09/01/04
主の公現(マタイ2:1-12)
贈り物を献げた学者は、自分の国に帰ります

主の公現を迎えました。東の国からやって来た占星術の学者たちも、ようやく幼子イエスのもとにたどり着きました。彼らはここに来る前にこの国の支配者であるヘロデ王にあいさつに行き、自分たちがユダヤに来た目的をはっきり伝えます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:2)。

占星術の学者たちの態度を、今週私たちもしっかり心に刻みましょう。「わたしたちはユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来ました」。学者たちは、ヘロデへの挨拶もそこそこにユダヤ人の王を探し当て、礼拝をささげたのです。

目的がはっきりしている人の足、目的を持っている人の目は誰の目にも明らかです。脇目もふらず、その人の足は目的地に向かいます。彼らの姿と、私の姿を比べてみましょう。私は、占星術の学者のように、目的を持ってこの神の家に集まっているでしょうか。

もっとはっきり言うと、「王としてお生まれになったお方を拝みに」やって来たでしょうか。もし、幼子を拝みに来ているなら、私の足はしっかり目的地に向かっている足と言えるはずですし、私の目は何をすべきかはっきり捉えている目をしているはずです。

次に、学者たちはひれ伏して幼子を拝み、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(2:11)とあります。彼らは幼子を王として拝みに来たのでした。学者たちにとって、王である幼子にふさわしい接し方というのは、贈り物を献げることだと考えたのでしょう。まだ言葉も話しませんし、何かの意思表示をするわけでもありません。それでも、占星術の学者たちは幼子を王として扱ったのです。

私たちも占星術の学者たちに見倣いましょう。幼子イエスを王として受け入れる態度を考えてみましょう。私が、どんな態度を取れば、幼子を王であり救い主であると認める態度になるのでしょうか。

いちばん身近なことは、贈り物を献げることです。占星術の学者たちは黄金と、乳香と、没薬を献げました。これら3つの贈り物が意味するものを、私たちが献げるなら、私たちは立派に幼子イエスを王として、救い主として受け入れていることになります。

この3つの献げ物が意味しているものは何でしょうか。黄金は、この世でもっとも高価な金属です。この世でもっとも高価なものは、もっとも尊い相手にふさわしい贈り物です。つまり、黄金を献げることで、その人はイエスを神として認めることになるのです。

乳香は、お手元の聖書と典礼の第1朗読解説にあるように、アラビアから輸入される香料で、古くから神殿への供え物にも用いられたとあります。神殿とは、神がおられる場所です。学者たちがイエスに乳香を供えたことで、イエスは神殿であり、神殿におられる祭司であることを認めて献げ物をしたということになります。

没薬は、聖書と典礼の福音解説によれば、結婚式や埋葬の際に用いられた香料とあります。表敬を表す贈り物として用いたのです。こうしてイエスが王であることを学者たちが認めたことを表しています。

3つの献げ物をよく学ぶ時、私たちも幼子に王として、救い主として接する道が理解できるようになります。私たちもまた、3つの献げ物を用意することで、幼子イエスにふさわしい態度を取ることができるのです。

では3つの献げ物を自分自身に当てはめてみましょう。黄金とは、この世でもっとも高価なものです。私にとってこの世でもっとも高価なものはなんでしょうか。もしそれを、幼子イエスに贈り物として差し出すなら、私たちは幼子を神として認めることになると思います。あなたにとって、もっとも高価なものが何か、私には分かりませんが、それを惜しいと思わずに、幼子の前に差し出しましょう。

乳香とは、神殿に対する供え物です。もっとも高価なものとはまた少し違う意味合いがあります。私の持っているもので、神殿への供え物は何でしょうか。神殿におられるイエス・キリストに、すぐに役立つものです。例えばそれは、婦人会が土曜日に実行している教会掃除かも知れません。花飾りかも知れません。お父さんたちの土日の守衛さんの仕事も、神殿へのりっぱな供え物です。ぜひ続けてくださって、供え物を絶やさないようにしていただきたいと思います。

結婚式や埋葬の際に用いられた没薬は、歌であり、祈りだと思います。幼子の前で聖歌と祈りを私たちが献げるなら、私たちは幼子を王と認めることになります。まとめると、今集っているこのミサこそ、幼子イエスへのいちばんふさわしい贈り物になるのではないでしょうか。

しかしながら私たちは、いつまでもこの聖堂の中に留まっているわけではありません。聖堂の中で私たちは生活しているわけではありません。実際の生活の場所に戻っていきます。戻っていく時に、私たちはここで学び、目で見て確かめたことを置いて帰るのでしょうか。

そうではありません。私たちが何かを見、学んだのであれば、それを生活の場に持ち帰るべきです。今週であれば、「東の国からやって来た占星術の学者たちの前に、幼子イエスは王として、救い主として示された」そのことを私たちは持ち帰るのです。見て、確かめたことを持ち帰り、羊飼いのように、また東の国に帰っていく学者たちのように、人々に告げ知らせましょう。私たちが幼子イエスに贈り物を献げてきたことを、この一週間、人々に知らせる者となれるように、ミサの中で照らしを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マルコ1:7-11)
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