主日の福音09/01/01
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
幼子の持つ「語らせる力」に気付こう

皆さん、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。今年、私の決意は、「片付ける。先送りしない。」としました。昨年、教会の改修工事をずっと先延ばししたことを大変申し訳ないなぁと思っておりました。今年、何か動かなければならなくなったら、もっと素早く動いていきたいと思います。

さて、1月1日、神の母聖マリアの祭日に与えられた福音朗読の箇所は、羊飼いが誕生した幼子を探し当て、幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせたという場面になっています。その後の展開は、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2:18-19)となっていきます。

そこで、毎年のことですが、この中にあるマリアの態度、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らす」という部分から、今週の糧、また今年一年の計を探してみましょう。まず、羊飼いの態度から取り上げてみたいと思います。

天使から、羊飼いに告げられた言葉は次のようなものでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(2:11-12)。

この言葉に従って、羊飼いたちはベツレヘムに行き、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。そこまでは当然の流れですが、幼子を探し当てた羊飼いたちは、さっそく出来事を人々に知らせに行くのです。「知らせに行く」という行動は、天使に命じられたことでもなく、羊飼いたちが自発的に取った行動です。

この場合、2つの可能性が考えられます。1つは、羊飼いたちが活動的であったので、出来事を人々に積極的に知らせに行ったというケースです。もう1つは、出来事そのものが、語らせる力を内に持っていて、それを見た人は、どうしても語らずにはいられないと考えるかです。皆さんは、どちらだと思うでしょうか。

私は、後の可能性が高いと思っています。羊飼いたちは大変喜ばしい出来事を目撃したのですが、だからと言って人々に知らせに行くことまで求められてはいないと思います。たとえば、この喜ばしい出来事にすっかり有頂天になって、知らせに行かないで終わることもあり得るわけです。

例を挙げると、重い皮膚病を患っている10人をイエスがいやしてあげた時、感謝しに戻ってきたのは1人のサマリア人だけでした。あまりの嬉しさに、我を忘れるということはあり得ます。救い主誕生の出来事を、人間の知恵によって知らせに行くというのであれば、必ず知らせに行くとは限らないわけです。

私が、後者ではないかと思った、つまり、出来事の中に「語らせる力」が秘められていて、見た人はそれを言わずにいられなくなると考えた理由は、そういう体験が身近な所にいくらでもあるからです。ついでに言うと、出来事によっては、うっかり口を滑らせたくなるようなすばらしい出来事でも、人間が語ろうとしないという場合もあります。

出来事のの中に、「語らせる力」が秘められている例を挙げてみましょう。このたぐいの例を挙げるのは簡単です。私自身の体験で言いますと、昨年末最後の魚釣りは12月29日でした。「1年の締めくくりに、行ってくるか」ということで出かけました。この日は久しぶりに島の裏側に回りまして、伊王島と高島の中間あたりでイトヨリ釣りをしたのでした。

幸いに、まともな魚が1匹だけ釣れました。合計では5匹釣りましたが、そのまともな1匹のイトヨリは、30センチを越える、まぁまぁの型だったわけです。このイトヨリのことは、どこかでぜひ話しておきたいなぁと思っていたわけですが、今日やっと、チャンスが回ってきました。

私はたいして釣れてない時にホラを吹いてまで「たくさん釣ったよ」と触れ回るたちの人間ではありません。でも、大きな魚が釣れると、誰でもそうでしょうけど話したくなるんですね。それは、私が話したがりやだからではなくて、魚に、言わせるだけの力を内に秘めているのではないでしょうか。見せびらかしたくてたまらなくなるのは、魚そのものがそれだけ立派だからだと思います。

救い主誕生の出来事も、羊飼いが話したがりやだったから人々に知らせたと言うよりも、やはり、出来事そのものに、「語らせる力」があったのではないでしょうか。幼子のもとには、しばらくすると占星術の学者たちもやってきます。私たちの教会でも、星の導きを頼りに学者たちは今旅をして、幼子のいる場所を目指しているところです。

どんなに小さなしるしであっても、そこに「語らせる力」がある出来事は、見た人を動かし、「語る人」に変えるのだと思います。マリアは、羊飼いが幼子を探し当て、見つけた後に人々に知らせる人に変わったのを見ました。宿屋もなく、救い主としての飾りもない、体一つの幼子を見た羊飼いが、人々に知らせる者となった。この幼子の中に、「語らせる力」があるに違いないと、思い巡らしたのです。

マリアの姿は、私たちに取るべき態度を示していると思います。私たちも、今は小さなしるしで現れてくださった救い主を目に焼き付けて、思い巡らしてみましょう。私が、信仰のことを人に知らせるとしたら、幼子としてお生まれになったイエス・キリストを伝えるべきではないだろうか。

何も身構えなくても近づくことのできる姿で、神はおいでになったのですよと、私たちは知らせるべきではないか。マリアのように思い巡らすことで、お生まれになった幼子から、私たちのなすべきことを教えてもらえるのではないでしょうか。

2009年、新しい年が巡ってきました。これからの歩みの中で、何度か、信仰を言い表すような場面が生活の中に現れるかも知れません。私はその時、尻込みしないで何かを言い表すことができるだろうか。今マリアのように思い巡らすことにしましょう。今日からの1年、私たちがマリアの取り次ぎによって救いの出来事を人々に語る者に変えていただけるよう願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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