主日の福音08/12/25
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
言は肉となった。わたしたちはその栄光を見た

私たちはあらためて主の降誕を祝うためにミサに集まりました。朗読された福音はヨハネ福音書です。ヨハネ福音書はマタイ福音書やるか福音書のような誕生物語を採用していませんが、今日の朗読箇所は「目には見えない誕生物語」だと思います。

私が、「目には見えない誕生物語」と言った理由をいくつか紹介すると、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1・11)とか、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)などです。家族構成とか、生まれた場所を描いているわけではありませんが、神の独り子がこの世にやってきたことを十分感じさせる表現だと思います。そして具体的な描写や写実的な表現をあえて避けていることで、かえって神が人となったという出来事を学びやすくしてくれていると思います。

たとえばこういうことです。「飼い葉桶に寝かされている幼子」のイメージはそれはそれで大切だと思うのですが、「言が人となった」「神が人となった」ということにとことんこだわるならば、幼子の姿はむしろ背後に隠れても構わないと思うのです。

つまりこういうことです。幼子の姿が目の前にあると、私たちの意識は必要以上に飼い葉桶の幼子に向かってしまいます。暖かい環境も準備してもらえなくて大変だったろうなぁとか、病気になったりはしないだろうかとか、幼子の姿があまりに強すぎると、本質的でないことまで想像してしまう危険があるわけです。

ヨハネにとっては、「言が人となった」「神が人となった」そのことが伝えられれば十分だったのです。寒かっただろうなぁとか、健康な体で生まれただろうかとか、そういうことに心を乱されたくなかったのでしょう。純粋に、「言が人となるとはどういうことか、どういう喜びが人類に与えられることなのか」この点に集中したかったのだと思います。

そこで今まで話したことを前置きにして、1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」について考えてみたいと思います。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」この説明で、神が私たちの世界にやってきてくださったことを言い表しています。私たちは神を見ることができませんが、神のほうから不可能を飛び越えて、見ることができるようにしてくださったのです。

私たちのほうから会うことができなかったのに、神のほうから会うことのできる方になり、話し掛け、話を聞くことのできる方になってくださった。神が人となって、私たちに喜びをもたらしてくださったのです。そうであれば、私たちは家畜小屋に近づき、見ることができるようになった神さまを眺め、話し掛け、話を聞くべきだと思います。

「わたしたちはその栄光を見た」とあります。私はこの箇所で、シメオンという人の話を思い出しました。ヨセフとマリアは、のちに幼子イエスを神殿奉献に連れていきます。その時シメオンと出会い、幼子を腕に抱いて、次のように神をたたえました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ2:29-30)。

シメオンがもう少し長生きするなら、イエスの少年時代や、もしかしたらイエスの宣教活動を見ることができたかも知れません。それなのに、幼子を見ただけで「もう十分です。わたしを去らせてください」と言ったのです。このシメオンの心境を、今日の最後のまとめにしましょう。幼子を見ただけで満足できるというのはどういうことなのでしょうか。

それを言葉で説明するのはなかなか難しいと思いますが、こういうことかなぁと思い当たる一つの体験があります。それは、私がある人からもらった記念カードに書かれていた言葉でした。その人はカードに、生まれてくれてありがとうと書いていました。初めてそのようなカードをもらったのですが、ずっと後になって、あーこの人は、私が将来どんな人間になるのか、どんな人生を歩むのかまで確かめなくても、私のことを喜んでくれているのだなぁと思い出したのです。

シメオンも、同じような心境だったかも知れません。彼は、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(ルカ2:26)と言われていましたが、イエスが成長していくその先を見なくても、ある意味、幼子の中にすべてを見て、すでに神さまに感謝できると感じたのだと思います。

私たちも、幼子のもとにひざまずき、「イエスさま、生まれてくれてありがとう」と言ってみましょう。その言葉を掛けてあげた時、なるほどイエスさまが生まれてくれた。それだけで嬉しいという思いに触れることができるかも知れません。

私たちはこれからの典礼の暦の中で、イエスのさまざまな出来事を体験できる幸せな時代に生まれています。その1つ1つに「ありがとう」と言ってもよいくらいです。そう思える人はぜひ、今日馬小屋に近づき、「イエスさま、生まれてくれてありがとう」と声をかけてみましょう。声をかけてみて、今まで気付かなかったことに初めて気付かされることがあるかも知れません。
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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:22-40)
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