主日の福音08/12/21
待降節第4主日(ヨハネ3:13-17)
神は私たちのために飛び越えてやって来ます

いよいよ、御降誕も目の前にせまってまいりました。今週はマリアに天使ガブリエルが遣わされて、神さまのご計画を告げる場面が選ばれています。その中で私は、マリアの戸惑いの言葉「どうして、そのようなことがありえましょうか」(1・34)という箇所を御降誕直前の糧としたいと思います。

マリアの戸惑いは、前例のない出来事を前にしての戸惑いです。誰にも、どんなに想像を巡らせても、本当は理解できないものだと思います。その時代、救い主の到来をすべてのイスラエルの民が待ち望んでいたとは言え、天使ガブリエルがどんなに分かりやすく説明しても、あーなるほど、と飲み込めるような話ではないからです。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(1・30-31)。人によっては、恐れることはないと言われること自体が恐れを感じさせます。「大丈夫だよ、怖くないよ」と近寄ってくる人を怖がるのと同じ道理です。

さらに天使ガブリエルの説明は続きます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(1・35-37)。

果たしてこのような説明で、目の前の不安がたちまちにして消え去るものでしょうか。私にはとてもそうとは思えないのです。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1・38)と言いましたが、私たちの精一杯の理解では、「もう心配してもしかたない。神さまがこのような計画をしたのだから」という心境だったのではないでしょうか。

もちろん、マリアは特別に選ばれた女性ですから、特別に勇気があり、何も恐れず、どんなことでもそのまま受け入れる才能に恵まれていたかも知れません。そのように考えてもよいのですが、もし、マリアがごく普通の女性であったとしたら、天使ガブリエルに答えたあの返事は、「わたしは、もう恐れないことにしました。そう決めました」という意味だったのではないでしょうか。

だれもが戸惑い、不安を乗り越えられそうにない時、そこに神は働きます。提示されている要求を前にして、自分にはその才能も覚悟もできていませんと言いたくなる時、神がそれらの不安を飛び越えるだけの働きかけをしてくださいます。

例を挙げたいと思います。皆さんの中に、大人になってから洗礼を受けた人がいると思います。成人洗礼を受けるきっかけはいろいろだと思いますが、キリスト教の教えが完全に分かったので洗礼を受けたという人はまずいないのではないでしょうか。それは、幼児洗礼を受けた人も同じことだと思います。幼児洗礼を受けているからキリスト教の教えを完全に理解できるわけでもありません。

それでも、一定の条件のもとで、洗礼を受けることになります。もしかしたら、洗礼を受けるその瞬間にも、不安がぬぐえないままだったかも知れません。信頼が足りないということではなくて、本当にこれまでの準備で大丈夫なのだろうかとか、これからちゃんとやっていけるのだろうかといった不安です。

そうした不安があったとしても、洗礼の恵みは確実にその人に与えられます。洗礼の恵みが確かにその人を神の家族にしてくださいます。それは、私たち人間の不安を飛び越えるだけの働きかけを、神さまがしてくださっているということなのです。

私たちの力で神の家族になれたのではありません。確かに準備はしたでしょうし、ある程度の覚悟も用意したでしょう。けれども、最終的に人を神の家族にしてくださったのは、すべてを飛び越えて私たちに恵みを注いでくださった神のわざなのです。

どんな努力があっても、人間が自分の力で神と絆を作ることはできません。神と人間が絆で結ばれるのは、神が私たちのほうに立場を飛び越えてきてくださるからです。いつも、いつでも、神さまが私たちのほうにすべての妨げを飛び越えてきてくださって、私たちは救いに招かれているのです。

マリアは、そのことを直観していたのかも知れません。「ちょっかん」と言いましたが、「直接感じる」ではなく、「直接観る」という意味の直観です。神さまが、身分も何も飛び越えて私のもとにおいでくださる。そのことが直接伝わったので、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言えたのだと思います。

その、マリアの直観は現実となります。神は、すべてを飛び越えて、人間社会においでくださいます。それが、幼子イエス・キリストです。人間がどんな準備をしても神の子をお迎えすることなどできません。それを十分承知の上で、宿屋もないのに、ほとんど誰にも気付かれないうちに、さらに命を狙われる危険も顧みず、すべてを飛び越えて救い主を送ってくださるのです。

私たちも、マリアの言葉を口ずさみ、神のなさり方に思いを向けましょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。神は、私たちの不安や戸惑いを飛び越えてやって来ます。この神の大きな計らいに感謝しましょう。まもなくおいでになる幼子を心待ちにして、私の救いを、全人類の救いを、ミサの中で祈り求めましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥