主日の福音08/12/14
待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19‐28)
光について証しする生活を目指しましょう

今週も先週に引き続き洗礼者ヨハネの活動が福音朗読に選ばれています。今週の朗読の中で、次の箇所から糧を得ることにいたしましょう。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1・7-8)。

まず、洗礼者ヨハネは、「神から遣わされた一人の人」でした。何のために遣わされたかというと、「光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるためである」と遣わされた目的もはっきり示されています。

さらに、洗礼者ヨハネがどのように証しをしていたかの報告まで詳しく紹介されています。どのような証しであったかというと、自分はメシアではない、あくまでもメシアの到来に備えさせる役割を与えられた人間であるという証しのしかたでした。

ここで私は、大胆に踏み込んで今週の福音朗読を受け止めたいと思います。神から遣わされた洗礼者ヨハネの使命を今確認しましたが、私たちも自分の生活の中で洗礼者ヨハネの役割を引き受けることはできないでしょうか。そのようなことを考えてみたいと思います。

「神から遣わされた一人の人がいた」(1・6)。私たちの中で、神から遣わされずにこの世に存在している人がいるでしょうか。神から遣わされることなく、自分でこの世に現れて、自分の望む国で望むように生活している人がいるのでしょうか。

私は、そのような人は一人もいないと思います。むしろ私たちは、だれもが「神から遣わされた人」なのだと思います。もしそう思えるなら、私たち一人ひとりはすぐに次の問いへと移るべきです。つまり、「何のために遣わされたのか」「遣わされて、何をなすべきか」です。そしてこの問いについても、洗礼者ヨハネの使命を、私たち一人ひとりに当てはめていくわけです。

では、私たちは何のためにこの世に遣わされたのでしょうか。「光について証しをするため、また、すべての人が証しに導かれて信じるため」です。私たちは、自分の生活を「光について証しをするための生活」に向けていくべきだし、実際そのようにできるのです。

「洗礼者ヨハネだから光についての証しができたのであって、わたしたちにそんなことができるはずがない」と思っているかも知れません。果たしてそうでしょうか。証しが可能かどうかを確かめるには一つのことを思い出せば十分です。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。

洗礼者ヨハネは光ではありませんでした。「光ではない」ということをよく理解していました。私たちも、「自分は光ではない」という自覚があるなら、洗礼者ヨハネと同じ方法で光について証しをすることは、可能なのではないでしょうか。

そこで、「どのような証しをするか」ということですが、理解しがたいかも知れませんが、「わたしは光ではない」と意思表示することだと思います。あわせて、人々の心を救い主に向かわせる何かをすることです。

例えば、この時期、すべての教会で馬小屋飾りが飾られています。人々が「どうして、すべての教会が例外なく馬小屋飾りを作っているのだろう」と考えるようになれば、それだけでも立派に「わたしは光ではない」「わたしはこの方のために道を備えている者だ」と人々に伝えることになるのです。

もしも、待降節のこの時期に、自分たちの教会で馬小屋飾りを作っているかどうか知らずに日々を過ごしているなら、私には責任があります。神からこの世に遣わされた人間として、誰もが何かの形で「光について証しする」必要があるからです。

ほかにも、日常のちょっとしたことで私たちは「光について証しする」生活を送ることが可能です。そして全員が、ここで述べるような例をヒントにして証しするなら、大きな力を発揮するのです。誰もが例外なく、光について証しするようになれば、きっとより多くの人が、光について信じるようになるはずです。

日常の中に、その「ちょっとしたこと」は転がっています。食事の後先に、祈りをすることもその一つです。祈りをすることでまず私たちは「わたしは光ではない」という証しを立てることになります。そして、祈る姿で、その場にいるすべての人をまことの光である方に向けさせることができます。

すべての人が一致して、生活の中で祈るべきです。健康な人はもちろん、病気で入院している人も、祈りをして食事をする、祈りをして食事を終えるなら、その場にいるすべての人が、私たちに導かれてまことの光を知るようになるでしょう。働いている人は職場において、学校で学んでいる人は学校でと、それぞれの場で例外なく証しを立てるなら、きっと大きな力となるはずです。

日曜日に、確実にミサに足を運ぶこと。これだけでも立派な証しです。カトリック信者の誰に尋ねても、「日曜日は教会に行く」そういう返事を聞くなら、「この人たちは自分たちが光でなく、光である誰かをわたしたちに教えようとしている」と気付くはずです。

ぜひ、小さなことの中に転がっているたくさんのチャンスを活かして、「わたしは光ではない。光であるお方を紹介しよう」。そういう証しの生き方を生活の中で続けていきましょう。まもなく来られるお方を、より多くの人が待ち望む社会を目指していくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
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