主日の福音08/12/07
待降節第2主日(マルコ1:1-8)
悔い改めはそうたやすい歩みではありません

11月24日に188殉教者の列福式が行われ、この日までにいろんな機会に188殉教者について学びの機会がありましたので、多くの人が多少なりとも188殉教者について学ぶことができたと思います。

その中に、トマス金鍔次兵衛(きんつばじひょうえ)という神父さまがいます。この神父さまが、外海の金鍔谷と言われる山奥に潜んでいたという話は聞いたことがあるでしょう。黒崎の信者さんが、7年かけてその場所を突き止めたというニュースも、大抵の人が知っていると思います。

話のついでに、私がある人に、「あの神父さまが潜伏していた場所をどうやって見つけたか知ってる?そこにタバコの吸い殻があって、それでこの場所が潜伏していた場所だって分かったんだよ」と言いましたら、「本当にですか?」と言われました。

「本当にですか?」と言われたので、すぐ「嘘よ」と言いましたら、その人から腹を立てられました。迫害の時代に金鍔神父さまがタバコを吸ったりするはずもありませんし、吸い殻を捨てたとか、ましてや吸い殻が今まで残ってるはずもないわけで、まさか本気にするとは思っていませんでした。

同じことを別の人に言ったら、「ま〜た始まった。それでそのタバコの銘柄は何だったんですか」と言われましたから、まず本気にすることはないだろうと思っていたのですが、ちょっと冗談が過ぎたかなと思っております。今年の待降節は、相手が腹を立てるような嘘は言わないという決心を立てようと思っています。

さて、待降節第2主日は、洗礼者ヨハネを登場させます。彼は2つのメッセージをたずさえて荒れ野に現れています。1つは、「悔い改めを促すこと」です。もう1つは、「すべてを『後から来られる方、イエス・キリスト』に向けていくこと」です。2つはお互い密接に関わっています。「悔い改める」とは、「イエス・キリストに向き直ること」であり、「イエス・キリストに自分を秩序づけること」が悔い改めのわざなのです。

では、洗礼者ヨハネのメッセージに耳を傾けましょう。彼は自分のもとに集まってきた人に、「悔い改め」を促します。マルコ福音書には出て来ませんが、ルカ福音書によると1人ひとりに具体的に指示を出しています。つまり、各自改めるべきことがあって、各人に見合ったことを実行する必要があります。

この洗礼者ヨハネの最初の呼びかけを自分自身に当てはめてみましょう。私にとって、何をすれば生活を改めることになるでしょうか。全員の指示をここで示すことはできませんので、少しだけ例を挙げてみましょう。私たちの小教区には、1年に1度しかミサに来ない人がいるのではないかと思います。なぜか知りませんが、クリスマスだけ来るとか、復活祭の時だけ来るとか、そういう人もいると思います。

そんな人には、まずは年に2回、ミサに来てもらいたいと思います。自分で心に決めて年に1度だけおいでになっている人に、いきなり毎週来てくださいと言っても無理でしょう。ですから、その人は年に2回ミサに来ることが、具体的な悔い改めの態度だと思います。

もっと言いましょう。ここ何年も、ミサに来ていない人もいるかも知れません。たしかに、船の中とか、島の中ではすれ違いますが、聖堂内でお目に掛かったことのない人がいます。機会を見ては、「教会では会わんねぇ」と言ってはみますが、無理矢理縄を付けて連れてくることもできませんので、教会に来ることをただ祈るばかりですが、ここ何年も、1度も教会に来ていない人にとっては、今年のうちにまず1度教会のミサに参加することです。それが具体的な悔い改めの態度だと思います。洗礼者ヨハネが求めたのは一般的な呼びかけではありません。1人ひとり、具体的に変わることを求めるのです。

次に、洗礼者ヨハネは「イエス・キリストに自分を秩序づけること」を求めます。洗礼者ヨハネ自身が、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」(1・7)と言って、自分の置かれている立場をはっきり示しました。洗礼者ヨハネは自分に与えられた役割が、イエス・キリストにつながって初めて意味を持つのだとはっきり分かっていたのです。

では振り返って、私たちはどうでしょうか。私が今あるのは、イエス・キリストのおかげであると感じているでしょうか。たとえば、今週私は、クリスマスの御像を新調できたことを皆さんと一緒に喜ぶことができました。これは決して私1人の努力ではありません。

仮に私が依頼をして、支払いも私がしたとしても、私が何かできるのはイエス・キリストのおかげです。馬込小教区にいるこれまでの4年間に、何かを達成できたかも知れません。ただし、そのどれ1つを取っても、私はイエス・キリストにつながってでなければ実現できなかったのだと思っています。

同じように、皆さん1人ひとりも、自分が今あるのはイエス・キリストのおかげであると感じているなら幸いです。洗礼を受けたすべての人が、例外なく自分のことをイエス・キリストに結び付けて考えるようになること。これが洗礼者ヨハネのもう1つの呼びかけなのです。

私の力でここまで来たのだとか、ここまでできたのは私のおかげだと思っている人がいるとすれば、あなたをこの世界で使ってくださったのはいったい誰なのかを考えるべきだと思います。私たちすべてのために、この世界においでくださる方、イエス・キリストのおかげで、私たちは何者かでいられるということを、決して忘れてはいけないのです。

洗礼者ヨハネの呼びかけは、突き詰めると同じ目的地にたどり着きます。それは、「イエス・キリストにすべてを秩序づける」ということです。聖パウロがそれをみごとに言い当てています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14・8)。

毎年、典礼暦が新たにされる度に、また洗礼者ヨハネを登場させる待降節第2主日に、パウロのこの言葉を確認する必要があると思います。悔い改めとは、何かをちょこっと変更することではないのです。まず今ある自分をイエス・キリストに結び付けて考えること、そして行き着くところは、一切をイエス・キリストに結び付けて考えるようになることです。

洗礼者ヨハネは「悔い改めなさい」と今も呼び掛けています。「悔い改めました」と言うだけに終わらず、一切を横に置いた荒れ野に来てみて、じっくり考えてみる必要があると思います。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19‐28)
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