主日の福音08/11/30
待降節第1主日(マルコ13:33-37)
ふだんの出来事に、待降節のヒントがあります

ペトロ岐部と187殉教者の列福式すばらしい式典となりました。中田神父は実行委員会広報部の仕事で裏方に回っておりましたが、あれだけの大きな式典を成功できたのは、長崎の人々に対してカトリック教会としての大きな働きかけになったと思います。もちろんさまざまなことで不都合やトラブルも起こったとは思いますが、全体としてはよくやったなぁと感心しております。皆さんの中にも、スタッフとして協力してくださった人がいらっしゃいます。ありがとうございました。

列福式の翌日に、私は参列者の1人と会う約束をしていました。まったく目が見えないという障害を持った人です。この人と最初に会ったのは13年前です。出会ったきっかけは、カトリックの点字図書館が縁でした。

盲人が書物を読み、情報を得るために本や雑誌を貸し出しているカトリックの点字図書館が東京にあります。その図書館に、私は20年くらい前から年に1度だけですが寄付をしていました。そのカトリック図書館が従来の点字の機械から、パソコンでテキストの文章を用意して、それをパソコンにつないだ点字プリンターで印刷するという新しい方法に切り替えるために、中古のパソコンを必要としていたのです。

13年前、全国版のカトリック新聞に中古パソコンを譲ってほしいというカトリック点字図書館の広告が載りました。当時私はすでにパソコンを持っていましたが、自分が買い換えれば譲ることができるなぁという単純な理由で、「譲ってもいいですよ」と申し出たのです。

パソコンを宅急便でカトリック点字図書館に送ったところ、図書館から電話が来ました。「このたびは貴重なパソコンを送って下さり、ありがとうございました。長崎に行く機会がありますので、浦上教会にお礼を言いに伺います」ということでした。その時浦上教会でお会いしたのが、1人は後にカトリック点字図書館の館長になる人でこの列福式で待ち合わせしてお会いした人、もう1人が、彼の次の代に館長になる人でした。

あとで聞いた話ですが、中古のパソコンを譲ってほしいと全国版のカトリック新聞に募集を掛けたとき、譲ってくれると言ってくれた司祭は、私しかいなかったそうです。そのことをずっと忘れずにいてくださって、今回の列福式参加のついでに、ぜひ会って帰りたいと連絡をくださったのでした。私は、そんなに大切に思ってくれていたとは知らず、私のほうこそ感謝の気持ちでいっぱいになりました。

77歳のこの人と昔のことや現在の様子などたくさん聞かせてもらいました。1時間たっぷり話を聞かせてもらった中で、私の心を強く打った話がありました。それは、「わたしたち盲人は、家を一歩出れば、毎日がちょっとした冒険なんです」という言葉でした。私はその言葉だけで、たくさんのことが思い当たりました。本人が話してくれたことも、やはり想像通りのものでした。

盲人の方々は、昨日と同じ場所に行こうとして、同じ道を使って同じ場所に行ったとしても、昨日は道の途中に置いてなかった物が置いてあって、それに躓いて転んだりするそうです。あるいは、初めての場所に旅行や用事で出かけて、階段から真っ逆さまに転落したり、溝に落ちてしまったり、下水の工事をしていたために蓋の開いた下水の穴の中に落ちたりと、盲人でない人には考えられないようなことで大けがをしたりするのだそうです。それでも、話してくれた人は、「毎日が冒険ですよ」と明るく言ってのけたのです。

その人は毎日が楽しくてしかたがないといった顔つきで、13年ぶりに会った私に話そうと思っていることをいっぺんに話しました。確かに、手を貸してもらう必要はあるけれども、長崎の列福式にも自分で来たし、カトリック点字図書館の館長を数年間務め、カトリック点字図書館が社会福祉法人になれるために東京都と交渉の窓口に立ち、ついに社会福祉法人に移るところまで責任を果たしたのでした。

皆さん、彼にとっては家を一歩出ればそこは毎日が冒険なのだそうです。東京に住んで、電車に乗ったリバスに乗ったり、買い物に出れば財布を開いたり閉じたり、公共の施設に行けばトイレを探す必要もあるでしょう。それらすべてが、私たちには何でもないことであっても、盲人にとってはすべてが冒険なのでしょう。本当に驚きました。

彼の言う冒険という言葉は、私の心に突き刺さりました。冒険は、十分な準備があって初めて成り立つものです。太平洋をヨットで横断するのも冒険でしょう。エベレストに最高齢で登るのも冒険でしょう。それらはどれも、十分な準備、もしかしたら十二分な準備をして初めて、可能になるのではないでしょうか。

もし、冒険というものがそういうものなら、私がお会いした全盲の人は、毎日の冒険に備えて、いつも十分な準備をしているに違いないと思ったのです。彼は、電車に乗ろうとしてホームに立ったとき、うっかり線路に落ちる人もいるのだと言っていました。ということは、彼ら盲人は、どんなにことにも用意して心構えができているということではないでしょうか。

教会の暦は今週から待降節です。救い主の降誕を準備しながら待つというのが今週の呼びかけです。私は今週の福音朗読が、ここまで説教で紹介した目の見えない人の暮らしにごく自然に当てはまっているような気がしたのです。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(13・33)。目の不自由なこの人は、いつなんどき、危険に巻き込まれるか分からないので、常に十分な注意を払っています。実際に、カトリックセンターで面会した時も、椅子に座る前にどのような形の椅子か、足には車が付いていて滑りやすい椅子か、確かめてから座っていました。私たちなら何気なく座るところですが、そんな小さなことでも気を付ける必要があるのです。

1時間接している間に、目が不自由な人たちが、そのハンディのために生活の中でたくさんのことに気を付けていることがよく分かりました。学ぶべき点がたくさんありました。私たちはふだんの生活でぼんやり暮らしていることがあまりにも多すぎると感じました。生活の面でぼんやりしているために、それが信仰の面にも悪い影響をしているかも知れない。いやもうすでに悪い影響が出ていると考えたほうがよいとさえ思いました。

ふだんの何気ない祈り、特に司祭にとっては毎日毎日ささげているミサ、もっと十分な注意、十分な配慮をして新しい教会暦の1年を過ごしたいと思いました。または教会の祈りも、急いで唱えることがあまりにも多いので、もっと味わいながら唱えようと思います。特別に新しいことをするのではなく、今すでにあることに、もっと十分な注意を払うことを、1人の人との出会いで考えました。「気を付けて、目を覚ましていなさい」という待降節の最初の呼びかけとして、肝に銘じたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
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