主日の福音08/11/23
王であるキリスト(マタイ25:31-46)
すべてが、イエス・キリストに仕えるチャンスです

今週で教会の1年の暦(典礼暦)は終わります。福音朗読は1年の終わりである日曜日と、人間の人生の総決算や人類全体の終末について考えさせます。あらゆる振り返りを呼びかけていると言っても良いでしょう。

そこで、私たちはカトリック信者としての振り返りをしてみたいと思います。カトリック信者にふさわしい振り返り方は、「イエス・キリストとの関わりで振り返る」ことです。そのことを頭に置いて、まずは与えられた福音の箇所を考えてみましょう。

「わたしの父に祝福された人たち」(25・33)。今週の朗読の中でこう呼びかけられている人々は、「お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(25・34)と言ってもらいました。大変幸せなことですが、この幸せにあずかっている人々は、用意されているものを受け継ぐことになった確かな理由を示してもらったのに(25・35-36)、説明を聞いても理解できていません。

同様に、「呪われた者ども」という厳しい指摘を受けている人々も、なぜこのような恐ろしい状況になったのか、その理由がはっきり示されているにもかかわらず(25・43)、自分たちが置かれている絶望的な状況が飲み込めなかったのです。

両方の人々の受ける報いに永遠の開きが出てしまいました。正しい人たちには永遠の命、呪われた人たちには永遠の罰の宣告です。けれども、どんなに長生きしても100年(マタイ福音が書かれた時代はもっと平均寿命は短かったでしょう)、人間が経験しうるこの人生において、「永遠の開き」というほどの差は本当に生じるものなのでしょうか。

結論から言うと、それだけの差が場合によっては生じるということになります。それは、「イエス・キリストとの関わりに置いてどれくらい中身のある人生を生きたか」で決まってくるのです。イエス・キリストにより近い場所で人生を送った人と、決定的に遠く離れた場所で生きた人では、その開きは「永遠」と言ってもよいくらいの開きが生じるということです。

今週の福音からそのことを学ぶために、一つの物差しを示したいと思います。それは、「どれくらいイエス・キリストにお仕えして生きたか」という「物差し」です。どこにいても、またはどんな状況に置かれていても、あなたがイエス・キリストにお仕えして生きているならより近い場所で生きた人です。反対に、どんなにチャンスに恵まれていても、イエス・キリストに仕える心がけを持たずに生きた人は、イエス・キリストから遠く離れて生きていたことになります。

永遠の命にあずかるとされた「父に祝福された人たち」は、この地上で生きている間、どんな小さなことにもイエス・キリストへの奉仕を読み取り、イエス・キリストに仕えるつもりで奉仕しました。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」とはそういうことです。

実際には、目の前にいる弱い立場の人々に奉仕をしていたわけですが、その人は心の中でイエス・キリストを隣人の中に見て、いつもイエス・キリストに奉仕していたと言えるでしょう。ただそれが、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)それほどに謙虚であったために、恐れ多い言葉に目を丸くしているのかもしれません。

反対に、厳しい叱責を受けた人々は、ある場面にはイエス・キリストへの奉仕を考えていたのかもしれませんが、多くの場面を見過ごし、イエス・キリストへの奉仕のチャンスをみすみす逃していたのでしょう。「最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(25・45)。ほとんどの場面を見過ごし、あるいは無視したのでしょうから、この人々はほとんどイエス・キリストに仕えなかったことになります。

イエス・キリストに仕えるなら、私たちたちとイエス・キリストとの関係は「王であるキリスト」と「僕であるわたし」という関係になります。「僕(しもべ)」という呼び方に抵抗があるかも知れませんが、その意味するところは「仕える者」です。王であるキリストに生涯仕えた人の人生は、王のそば近くにあった人生です。私たちは明日、そのようにして人生をまっとうした人々の列福式にあずかるのです。

いよいよ明日は、188殉教者の列福式です。彼らには、「慈悲の組」という組織があり、彼ら自身小さい者の一人であったにもかかわらず、「最も小さい者の一人」への奉仕を欠かさなかったのです。血の一滴までも、王であるキリストにささげて人生をまっとうした彼らが、神に祝福され、神の国を受け継ぐのは当然なことです。
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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
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