主日の福音08/11/16
年間第33主日(マタイ25:14-30)
主から託されたものは隠すべきではありません

今週の朗読で主人が僕たちに預けたタラントンは、5タラントン預かった人と2タラントン預かった人には貴重なものでしたが、1タラントン預かった人にはそうではなかったようです。先の2人は預かったタラントンを早速商売に活用しましたが、1タラントン預かった人は、「出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」(25・18)のです。「やっかいなものを預かってしまったなぁ」といった感じだったのでしょうか。

主人が僕たちに預けたものは直接にはお金だったかもしれませんが、先の2人は「主人とのつながりすべて」がいろいろな活用の見込めるものだったのではないでしょうか。商売をしてもうけたとありますが、「自分の後ろには主人の後押しがある」ということも、商売上大いに役立ったはずです。取引の相手を信用させるために、「この商売は自分の主人から託された資金で始めている」と切り出しただけでも十分相手を納得させることができたでしょう。そうして信頼を勝ち得て、商売はとんとん拍子にいったのかもしれません。

1タラントン預かった僕はどうだったのでしょうか。彼が土の中に埋めた物は直接には「お金」でしたが、主人の僕であるといった「主人とのつながり」も、この僕にとっては迷惑であり、土の中に埋めておきたいものだったのかもしれません。そういう思いが主人への報告の中ににじみ出ています。「恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です」(25・25)。最後の僕は預かった金を主人に突き返すだけではなく、主人との絆さえも、「のし」を付けて返しますと言っているわけです。

主人が怒ってしまうのも無理はありません。「わたしはあなたに預かったものを迷惑と思っていましたし、あなたとの絆を遠ざけて今日まで暮らしてきました」と面と向かって言われて、気持ちの良いはずがありません。主人は命じます。「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ」(25・28)。主人が与えたものを最大限活用できる人に与え直したいと考えるのは、主人にとって当然のことでしょう。

実は私たちも、気付いていないかも知れませんが、自分にまつわる絆にどのように関わっていくか、すでに経験してきています。いちばん分かりやすい例は、自分自身の血筋、血統についてです。私たちは父親母親の血筋を引いているわけですが、ある時期はこの血統に抵抗を感じ、自分は親との絆にぶら下がって生きたり、親の七光りで生きたくはないと反発するのではないでしょうか。自分の中にある血統を煩わしいものとして受け止めて、自分一人で生きていけるとか、先祖の血筋という色眼鏡で見られるのを嫌った時期もあったのではないかと思います。

中田神父はその点について、中田家という血筋をかなり重荷と感じる時がありました。自分は中田家の血筋という見方で見られることを嫌がり、自分の家系にある才能や歴史が自分にないことを悲観し、どうして中田家に生まれたのだろうかとさえ思いました。

けれども、才能や伝統はどこかで花開くものです。私が今勤めさせてもらっている教区の広報の仕事で言えば、大先輩の中田武次郎神父様は、長崎教区100年の歴史という記録写真集の編集長だったことを知りました。しかも、私が広報部長になってみてはじめて、大先輩の足跡を知ったのです。先輩の中田神父様がカメラや8ミリをよく回していたということは聞いたことがありましたが、意外な所でその才能を分けてもらっていたんだと知り、自分の家系について知りたいと思いました。家系について知れば知るほど、どれだけ自分の家系に流れているよい面を使わせてもらって今の自分があるのかが分かってきました。

皆さんにも、似たようなことはきっとあると思います。自分の中に流れているものを重荷と捉えてしまい、うまく折り合いを付けられない時期があります。けれども、そんな時期を経験した上で考えると、今ある自分の背景に、きっと感謝できるようになると思うのです。自分自身と、自分を取り巻く環境に、感謝できるようになった時、その人は才能を十分に発揮できるようになるのではないでしょうか。

こうした、私たちがすでに経験してきたことと重ね合わせると、今週のたとえに込められた思いは十分理解できます。主人と僕の間にある絆を、重荷と感じるのかかけがえのないものと感じるのか。その受け止め方で結果は大きく変わっていくわけです。5タラントン預かった人と2タラントン預かった人は、主人とのつながりをありがたいこととして受け止めました。これ以上ない後ろ盾だと感じました。1タラントン預かった僕は、主人との絆、主人との関係を恐れたのです。そこに、今日のたとえを理解する鍵があると思います。

実生活に加えて、私たちの信仰生活の中にたとえの教訓を読み取りましょう。今日の主人と僕のたとえを私たちの信仰生活に当てはめると主人とは父である神で、僕は私たちのことです。信仰を持って生きる中で、父である神との関わりや絆を、できるだけ隠しておきたい、遠ざけたいと思っているのではないでしょうか。そうであるなら、私たちに与えられている神との絆、神とのよりよい関係は取り上げられ、神との絆を大切にして生きる人々に与え直されてしまいます。

神から預けられた恵みを、土の中に埋めて隠してしまう態度は、具体的にはどのような態度を意味しているのでしょうか。誰にも見せない、というのですから、恵みを自分だけのものと考えている態度です。それは言い換えると、預けられた恵みを誰かと分け合おうとしない態度です。

神が預けた恵みは、誰かと分け合ったり、だれかのために活用する時に大きな力を発揮するのに、自分の中に閉じこめ、誰にも分け合わないなら、神さまはもっと役立てることのできる人に向かっていくかも知れません。結婚生活にある人が、恵みを家族と分け合うこと。家族のために祈ったり、家族の恵みを願ってミサを依頼したりして、使うことのできる恵みを分け合う時、何倍にも恵みが豊かになります。

司祭や修道者が、出会う人や、遣わされた教会で受けた恵みを分け合う時、恵みは何倍にも豊かになります。そのことに心を向けないなら、どんな信仰の生き方に召されていても、土の中に恵みを埋めているようなものです。

神からの恵みを取り上げられるのは私たちによほどの原因があったのだと考えるべきです。知らぬ間に、神さまあなたの恵みは迷惑ですという態度を示していたとしたら大変なことです。万に一つも、そのようなことのないように、自分の生活を見直したいものです。
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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
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