主日の福音08/11/09
ラテラノ教会の献堂(ヨハネ2:13-32)
すべての「神殿」で真の礼拝をささげましょう

人間だれにでも多少はあるのかも知れませんが、あまりやりたくないこと、得意でないことは後回しにするという弱さががあります。私もその1人です。いろんなことを後回しにして、自分で自分の首を絞めている時があります。

日曜日の説教は、意外に思われるかも知れませんが、わりと早く考え始めているんです。水曜日あたりから考え始めることがしばしばですが、いよいよまとめようとして原稿を書くのはやはり土曜日です。それも、土曜日の夜遅くとかになってしまいます。

仮に金曜日に、書き始めるきっかけを少しつかんでも、「大丈夫。あとで書けるさ」と自分を甘やかしてしまいます。そんなふうですから、予定外の仕事、例えばカトリックセンターでの本部の仕事で呼び出されたりすると、残された時間が少なくなって頭を抱えることになるわけです。きつい目に遭うたびに、「今度は少し早く書き始めなきゃ」と思うのですが、ちっともその決意は実行されません。

締め切りを抱えている仕事は締め切りを守るのが相手に対する礼儀ですが、いつも守らないで遅れて提出している仕事が2つあります。そのうちの1つは、全国の教会学校やカトリックの学校の子どもたち・保護者たちのための雑誌「こじか」の記事です。月末の25日が原稿提出の締め切りなのですが、たいてい5日ほどずれ込んで、30日とかに提出しています。

どうして締め切りを守れないのか。いろいろ言い訳をすることはできるでしょうが、結局は頭の中にある「自分に甘い態度」を取り除く以外に締め切りを守る方法はないようです。今日の福音でイエスは神殿で商売をしている者たちにこう言います。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2・16)。

鬼気迫る迫力ですが、私も他人事ではなく、自分のこととして考えなければなりません。「このような物はここから運び出せ」。私の頭の中には、いろいろな言い訳がたくさん入っています。

月末まで用事が立て込んでいた、今日午前中はあまり書く気がしなかった、午後は眠たかった、夜はついついテレビを見ていた等々。けれどもイエスは、「それがどうした。そんなもの、運び出してしまいなさい」と厳しく迫るのです。

イエスに「運び出してしまいなさい」と言われそうな物を所持したまま、私たちは暮らしていないでしょうか。自分を堕落させそうな物をいつまでも捨てずに置いたままにしている。はっきり縁を切った方がよいのに、離れようと思えばいつでも離れられると自分を偽り続けて、人や物、環境などを近くに置いている。このように、運び出せずにいつまでもあいまいにしている事柄が、少なからずあるのではないでしょうか。

今週もこうして、日曜日の礼拝に私たちは集まっています。健康の理由で来ることのできない人は別として、この礼拝に集まるためにも、つい言い訳にしたくなるようなことを心を鬼にして追い出し、礼拝に来ている人もいるかも知れません。もちろん、礼拝に集まっている私たちも、ここに集まっているから大丈夫とは言い切れません。礼拝を妨げようとするいろんな誘惑が私たちの心に入り込み、心を乱すこともあり得ます。

いろんな可能性を考えると、イエスの言葉は例外なくすべての人に向けられています。あなたが完成させようとしていること、神さまのために始めた計画、隣人愛のわざ、どんな小さな事柄にも、後回しにさせようとしたり、計画をあきらめさせようとしたりする「見えない敵が潜んでいるのです。イエスはいつの間にか鈍くなってしまう私たちの目を覚まそうとして、「このような物はここから運び出せ」と呼びかけを続けるのです。

今週の朗読にある通り、イエスがこのような厳しい態度に出た場所は「神殿」においてでした。イエスの時代のエルサレム神殿では、動物をささげものとして神殿に供える習慣が維持されていました。イエスの誕生のときにも、つがいの鳩をささげましたから、多くのユダヤ人にとって動物のささげものは日常的なことだったわけです。

敬虔なユダヤ人は、どんなに遠くにいても毎年エルサレムでの礼拝を欠かしませんでした。けれども動物を遠方から連れてくるのは困難だったので、神殿では盛んにいけにえの動物が売られていたのでしょう。「いけにえの動物は要りませんか。お安くしておきますよ」。そんな商売人の声が響いていたのかもしれません。

こうした状況をイエスは見過ごすことができませんでした。そこでイエスは、まったく新しい礼拝を打ち立てることにしたのです。それは、動物による礼拝ではなく、イエスを通して、イエスによって父なる神を礼拝するというものです。イエスみずからがいけにえになってくださることで、真の礼拝を確立しようとしたのです。

神殿で動物を追い払うイエスに、ユダヤ人たちは「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2・18)と詰め寄ります。イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2・19)と答えました。

イエスが言う「三日」は、イエスの死と復活を暗示しています。ささげものによって成り立っていた当時の神殿での礼拝を、イエスご自身の死と復活によって、つまり「三日で」、イエスを通してなされる新しい礼拝に建て直してくださいました。もはやこのときから、動物のささげものによる礼拝は、真の礼拝ではなくなります。

イエスが望む真の礼拝は、建物としての神殿だけに限りません。私たちもまた、聖霊が宿る神殿であると言われます(1コリント6・19)。私たち自身が神殿であれば、私の心の中に、生活の中に、イエスが忌み嫌う物を持ち込むべきではありません。イエスは、わたしたちに見せかけの礼拝ではなく、真の礼拝を求めておられます。イエスに「このような物はここから運び出せ」と言われそうな物はきっぱり追い出して、生活そのものを神への礼拝としておささげしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マタイ25:14-30)
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