主日の福音08/11/02
死者の日(ヨハネ6:37-40)
主が訪れる人の顔は輝く

11月、死者の月に入りました。ちなみに11月1日は「諸聖人の祭日」、11月2日は「死者の日」となっていて、今月の最初の2日間を連続で死者のために祈るように促しています。私たちもこのミサの中で、亡くなった方々のために祈ることにいたしましょう。

まず、私も今年は5月31日に父を神さまのもとに送りましたので、すこし父の思い出から話させてください。五島での葬儀ミサの司式は神さまの計らいで私が司式をして行うことができました。多くの場合「心労がたまったままでは大変だろう」ということで、ミサ中の説教だけをするのですが、今回は司式をさせていただきました。

ミサの間は動揺したりしなかったのですが、告別式に移り、最後の結びの祈りを唱えた時に、こみ上げるものがあり、声が震え、涙を流しました。「いつくしみ深い神である父よ、あなたが遣わされたひとり子キリストを信じ、永遠のいのちの希望のうちに人生の旅路を終えたフランシスコ中田輝明をあなたの手にゆだねます(以下省略)」。この言葉を唱えながらこみ上げてきて詰まってしまいました。

死者の日と重なった今日の福音朗読でイエスは言いました。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(6・37)。この世から離れていき、また自分たち家族から離れてゆく父をいよいよ神さまに委ねなければならなくなった。もはや、私たちの手は届かない。そんなことが頭の中を駆けめぐり、辛いなぁと感じたのだと思います。

けれども、涙の中で告別式の結びの祈りを唱えた後は、弔電の時も、献花の時も、晴れやかな気持ちになっていました。「たった今、神さまにすべてをお委ねしたのだからもう心配はしない。イエスは、『わたしのもとに来る人を、決して追い出さない』のだから」。依然として涙は止まりませんでしたが、心は安らかでした。十分な説明はできませんが、親しい家族を亡くして神さまのもとに送り届ける経験を積むと、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という言葉が信頼できるようです。

父は決して無用な延命を望みませんでした。「神さまが望むなら、死んだほうが楽だと思うほど苦しくても生きようと思っているし、神さまが戻ってきなさいと言うなら、いつでも行く」ときっぱり明言していたのです。父は、永遠の命を与え、復活させてくださるという神の御心を固く信じていたのだと思いました。

さて今日のミサは、私たちの教会で亡くなったすべての方々のために祈るミサです。特に、今年天に召されていった方々のために祈りたいと思います。私は今年、ある光景を見て思う所がありました。大明寺教会の朝のミサを終えて帰ってくる時、おそらく木曜日のミサだったのだと思いますが、馬込教会の共同墓地に朝日が差して、太陽が墓石に反射していたんです。

はじめは、ううぅー、まぶしいと思ったのですが、そのすぐ後に「亡くなった人々に、光が差して、輝いているようにも見えるなぁ」。そんなことを考えたのです。

典礼聖歌の中に、次のような聖歌があります。「主を仰ぎ見て光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く」(典礼聖歌128番)。私は、共同墓地の墓石が太陽を浴びて反射しているのを見た時、墓に眠る人々、復活を待っているすべての人が、神さまの光を受けて、輝いているのではないかなぁと思ったのです。

人間はだれも、神さまの目から逃れて生きることはできません。どんなに馬込教会を遠ざかっていても、神さまの前から遠ざかって生きることはできないのです。神さまはいつも一人ひとりのそばにおられるからです。

けれども、生きている人間は全部が全部、神さまがそばにいてくれることを喜んでいるわけではありません。面倒だと思ったり、うっとうしいと思ったり、神さまがそばにいることを嫌がっていることがあるのです。嫌がられて神さまも悲しい思いをしているだろうと思いますが、人間は自分の都合で勝手なことを思ってしまうのです。

ところが、死者は、自分の勝手ができない存在だと思います。神さまがご自分のそばにお呼びになって、旅立った人々ですから、自分勝手に神さまから遠ざかることができない存在です。

もし神さまから遠ざかっている人がいるとすれば、それは生きているうちに完全に神さまと縁を切って、神さまのお世話になりたくないと言い張った人です。その人は、神さまのもとから永遠に遠ざけられた人で、もはや決して近くに行くことはできません。

ここでは、永遠に遠ざかっている人のことは考えません。神さまに呼ばれてそば近くにいる人、神さまに呼ばれたけれども償いが残っていて待たされている人。このような人々のことを考えます。この、神さまのもとにあるすべての死者は、今主を仰ぎ見て、光を受け、顔は輝いているのではないかなぁと思いました。

ここから私はカトリック信者としての人生の生き方は2つなのだと思いました。1つは、「主を仰ぎ見て、光を受けよう」と考える生き方です。もう1つは、「主に背を向け、暗闇の中を歩もう」という生き方です。この人生を終えた後、神の前では2つのうちどちらかの状態でしか存在できないのですから、今生きているうちにも「主を仰ぎ見て、光を受けよう」という考えて生きていくべきだと思います。

私は、太陽に照らされた墓地での経験から、すでに亡くなった人々は「主を仰ぎ見て、光を受けよう」と神さまをたたえていると感じました。一人ひとり、当てはめてみましょう。イエスは「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させる」(6・39)そのためにいのちまでささげたのですから、私たちが生きている間神に背を向けてよいでしょうか。むしろ、神の望みに答える生き方を確実に選ぶことができるように、恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
ラテラン教会の献堂
(ヨハネ2:13-32)
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