主日の福音08/10/05
年間第27主日(マタイ21:33-43)
ぶどう園に「神の恵み」を重ねて読む

朗読されたたとえは、神の恵みを考えるために大いに役立ちます。一人の人がぶどう園を作り始めました。そこから収穫を得ることが目的です。ぶどう園に垣をめぐらします。人が勝手に出入りして、ぶどう園を荒らさないためです。搾り場は、ぶどう酒を作るために必要です。見張りのやぐらも建てました。

主人はこれを農夫に貸し与えます。準備が整ったぶどう園としては、これ以上を望むことはできなかったでしょう。この至れり尽くせりのぶどう園を、私は神の恵みに置き換えてみたいのです。

神は溢れるほどの恵みに満ちておられます。この恵みは誰かに貸し与えるためのものです。それも条件を付けてではなく、無条件に貸そうとされます。たとえ話のぶどう園と同じように、神はご自分の恵みを、最高の状態にして、これ以上望めないというものに仕上げて貸し与えるわけです。

神は何かを与えるときに、できるお世話はすべて調えて、その上で私たちに恵みを与えてくださいます。たとえば洗礼のお恵みを考えてみても、そこにはすべてのものを新しくする力が準備されています。原罪とすべての自罪がゆるされ、神の子となり、神の国を受け継ぐ者となります。すべてを新しくして、その姿に生き続ける恵みを与える。ここまで準備の行き届いた恵みを、神は無償で、ただで与えてくださるのです。

ここで、私たちの態度が問題になります。与える神は、これ以上ないという準備をして、一つひとつの恵みを与えてくださいますが、それを受ける私たちの方は、どうなのでしょうか。ふさわしい態度ができているでしょうか。

福音に登場する農夫たちは、雇い主の寛大さと正反対の、とても残酷な態度をとっています。彼らの態度は、全く逆恨みとしか言いようがありません。僕たちが収穫を受け取りに来た時、何も収穫を全部取り上げるとは言っていないのです。

恵みが、恵みになるためには、「無償である」ということが必要です。農夫たちはこの点を取り違え、「ただで用意されたぶどう園」を、「自分の持ち物」にしようとしました。「ただで用意されたもの」、つまりぶどう園が「恵みの状態」のままだったら、いつまでもその恩恵を受けて収穫にあずかることができたはずです。それを、自分のものにしようとし、「神からの恵み」という状態にあったぶどう園の価値を引き下げてしまったのです。

ぶどう園の主が送った僕たちとの関わりは、神の恵みを繰り返し確認する機会になるはずでした。利用させてもらっている「ぶどう園」は、何から何まで準備してもらったぶどう園だった。これは何にも代えられない恵みだから、恵みに感謝して答えよう。そう考えるべきでした。

ところが、農夫たちは自分だけで味わいたいという気持ちがわいてきて、遣わされた人との関わりを閉ざし、自分の殻に閉じこもったのです。ぶどう園が「無償で与えられた恵み」と感謝できている間は実りをもたらしますが、自分のものにしようとし始めると「恵み」でない状態に変わってしまうのです。

自分の息子、独り子を送ったとき、主人はどのような気持ちだったでしょうか。残酷な仕打ちを僕たちが受けた後に、誰よりも愛している子を送ったのです。今度こそ、恵みが「無償である」ことを思い出す最後のチャンスでした。恵みとして与えたのですから、賛美、感謝、人間にしか表せない心の動きでもって、恵みに答えてほしかったと思います。神は恵みを与えた上に、いっしょに収穫を喜び合いたいのです。

私たちはどうでしょうか。私たちの心に、恵みのすばらしさを「引き下げてしまう」弱さが潜んでいないでしょうか。一人ひとりに用意された恵みを、誰かと比べることで判断を狂わせたり、欲に目がくらんで、自分のものでないものまで手に入れようとたくらんだりすることがないでしょうか。こうした心の動きは恵みの価値を引き下げてしまうものです。

恵みが「無償である」ということを、もう一度確かめましょう。それさえ忘れなければ、私たちはいつまででも恵みの中にいることができます。人間の欲に惑わされないように、神の恵みをいつも十分に活かす知恵を保つようにいたしましょう。
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