主日の福音08/09/28
年間第26主日(マタイ21:28-32)
「ぶどう園」は考え直す人を成長させてくれる

今日の福音朗読に用いられたたとえ話の元になる古い伝承には二通りの記録があって、兄に勧めて兄は断り、あとで出かける、弟はその反対に返事は良かったけれども、実際は出かけなかったというものと、弟に勧めたら弟が断って、あとで思い直して出かけ、兄の方は頼まれたときに色好い返事をしたけれど、行かなかったという二つの伝承が残されているそうです。

ということは、必ずしも兄が誠実な人で弟が不誠実というのではなく、「あとで考え直して出かけた」(21・29)ことが物語の中心点ということがわかります。もちろん、先に声をかけられたとなっている「兄」には、背景があるわけですが、私たちの問題として考えようとするとき、ここで背景に置かれているものに触れなくても十分学びを得ることができると思います。

まず、あとで考え直した兄弟はどんなきっかけで考え直すことにしたのかを探ってみましょう。彼にぶどう園の仕事を頼んだのは父親でした。ぶどう園の主でもある父親には、きっと使用人もいただろうし、季節労働者を雇ってもよかったわけです。その父親が、息子に仕事を頼んでいる。本当に断っていいだろうか。まずはそう考えたのではないでしょうか。

また、一般的に父親は自分の息子が期待に応えてくれることを大いに喜ぶものです。これまでも父の喜ぶ顔を息子は見たことがあったはずです。「いやです」と言ったとき、父親の顔は曇ったのではないでしょうか。本当に父をがっかりさせたままでいいのだろうか。そんなことも、あとで考え直した息子の頭によぎったのではないでしょうか。

たとえ父の願いであっても、息子も人間ですから「いやです」と言うか「承知しました」と言うかの自由はあります。父親は、自分の意志で、父の望みに応えてくれることを期待しています。自由意志を働かせて、だれにも強制されずに、父の望みを果たして欲しいのです。息子は自分でよく考えて、「いやです」と言ったかも知れません。けれどもどこかに、「まだ考え直せる余地はあるのではないか」という思いに駆られ、最後にはぶどう園に行きました。

こう考えると、私たちが何かを決めたり選んだりするとき、父は喜んでくれるだろうか、父はどう思っているだろうか、そのことを忘れないようにして判断すべきです。もちろんここで言う「父」とは、「父なる神」のことです。私たちは「はい」と言う自由も「いやです」と言う自由も与えられていますが、どちらにしても「この返事で、父なる神は喜んでくれるだろうか」ということを考えなければ本当の意味で正しい判断はできないのです。

「この判断で、神さまは本当に喜んでくれるのだろうか」と考えるというのが1つの学びですが、もう1つは、たとえ話で言われている「ぶどう園」とはどこなのかということも考えると意味深いと思います。この点で私が思い出せる体験を1つ話してみたいと思います。例としては、以前聞いたことがあるかも知れません。

私は当時まだ駆け出しの司祭でした。3人の若い司祭で結婚講座を切り盛りしていましたが、あるカップルがずっと講座に出席していませんでした。結婚講座は全体で15回ありましたが、このままでは修了証を出すことはできないと思い、とうとう電話をかけて、その方の家に事情を尋ねたわけです。

電話には父親が出ました。本人がまだ戻ってきていなかったのかも知れません。そこで息子さんが結婚講座に来てなくて、このままでは修了証を出すわけにはいきませんと伝えますと、その父親は前に結婚させた子どもは○○神父さまが指導してくれた、その神父さまはそんな何回来なければ終了できないとか難しいことは言わなかった、お前はそれでも神父か、前の神父さまのようにどうして簡単に終われないのかと責めたれられまして、まいってしまいました。

私も多少ムキになっていたこともありますが、結婚講座は結婚するために必要ですから、そんな無茶を言われても困ります、どうしても来ることができない理由があれば聞かせてください云々と、こちらも義務の一点張りで引き下がろうとしなかったのです。その日は電話の出来事を先輩に相談もできず、腹も立つし眠れなくて、一日頭から離れませんでした。

その日の夜、布団の中で考えていました。むこうの言い分は筋が通っていないから自分が折れるのはいやでした。「納得できないのにその場を譲るのはいやです」。私は心の中で、神にそう言っていたのだと思います。けれども神は、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と声をかけて、もう一度考え直すきっかけをくださったのでした。

私としては、一歩も譲るつもりはなかったのですが、一晩考えてみて少し考えが変わりました。父である神は、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言ったのです。どちらが正しいかはっきりさせてきなさいと言ったのではなく、ましてや相手の間違いを指摘してきなさいと言ったのでもありません。「ぶどう園」、つまり、父なる神が示す場所に行って、問題解決のために働きなさいと言っていたのです。

私が問題を解決できるかどうか分かりません。ただ父なる神は、ご自分が働いて欲しい場所で、忠実に働いて欲しいのです。私が居座っている場所がぶどう園だとは限りません。全く不利な場所を指して、ここで働いてくれないかと求めてくるかも知れません。最初から不利な場所で働くのは誰でもいやです。それでも、考え直して、結果を気にせずに働くことが、父なる神の望みなのではないか。そういうことをぼんやりと思ったのでした。

当時は今話したようなことをはっきりと意識していませんでした。納得できないけれども電話で言い過ぎたかも知れないからと思って、その家庭を訪ねていきました。前の日のことを謝り、ぜひ結婚講座に来て欲しいと言うと、結婚する人の父親も分かってくれました。

自分に悪いところはないからと思って「いやです」と言い続けることもできたでしょう。けれども、父である神が示す場所が、私たちにとっての「ぶどう園」なのです。いやだと思っているその場所であっても、後で考え直し、心を決めて働くとき、神が喜んでくださいます。

駆け出しだった当時のことをふり返りながら、父なる神が「ぶどう園へ行って働きなさい」と呼びかけているその「ぶどう園」について、新たな発見をしました。私たちはいつも、神が示す「ぶどう園」で、できる働きを期待されているのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
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マタイ21:33-43
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