主日の福音08/08/31(No.374)
年間第22主日(マタイ16:21-27)
イエスのみことばが、すみずみにまで行き渡るように
今日8月31日、長崎教区民である私たちは、まずは島本大司教さまのことを思い起こす日としたいと思います。6年前の今日、聖地巡礼から帰った直後の31日に、島本大司教さまは肺炎のために天に召されました。たいていの聖職者は、容態が悪いらしいという連絡があって、あの神父さまも心配だなぁと皆が心配する中で亡くなっていくものですが、島本大司教さまは亡くなったという連絡が突然入りました。
初めはどうしても信じられず、連絡を入れてくれたシスターにちゃんと確認したのかと聞き返したことを今でも覚えています。私は同級生と一緒に島本大司教さまから助祭の叙階と司祭の叙階の恵みをいただいたので、ショックは特別でした。きっと皆さまも、島本大司教さまには親しみを覚えていたと思います。今日1日、何かの形で島本大司教さまのために祈りの時間を設けてください。
さて中田神父は昨日までお休みをいただいて五島に帰っておりました。皆さんに特別な連絡はしませんでしたが、今年は私が休暇を取るのに合わせて、侍者の子を上五島の教会巡礼に連れていきました。3泊4日の旅でした。軽自動車のレンタカーを借りていましたので、そのうちの2日間、みっちり上五島の教会を2人で見て回りました。
本当は、夏休みでもあるし、海水浴にも連れていってあげようと思っていたのですが、初日は雨降りで行けませんでしたし、翌日は高波で海水浴場の入口に「遊泳禁止」の立て看板が設置されていてどうしても泳ぐことができませんでした。侍者の子もシュノーケルまで準備して五島での海水浴を楽しみにしていたのですが、最後までホースを口にくわえることはできませんでした。
教会巡礼のことですが、この機会にと思って上五島の教会のすべてを見せてあげようと思い、巡回教会も含め可能な限りの教会に直接行ってお祈りをしてきました。私も運転含めヘトヘトになるくらいでしたから、侍者の子も相当大変だったと思います。そんな中で、五島の教会が馬込教会と比べてみて違う所と、似ている所など、学んでくれたこともいろいろあったと思います。
その中で、2つ取り上げると、1つは、上五島では1人の神父さまが3つとか4つの教会を受け持ってお世話していると知ってもらえたことです。上五島では、実に11の小教区のうち7つの小教区が、3つ以上の教会を抱えています。中田神父と同じような環境にある神父さまがたくさんいらっしゃるということを知って、侍者の子は大変驚いておりました。
もう1つの大きな収穫は、中に入ったすべての教会で、必ずお祈りをしてきたということです。そんなに長い時間ではありませんでしたが、それぞれ教会に入る度に、必ずお祈りをささげてきました。私はちょっとした願いを込めて祈っていましたが、侍者の子はもしかしたらただただお祈りを一緒にしただけかも知れません。それでも、この子の中には、上五島のお祈りしてきたすべての教会のことが、鮮明に記憶に残ることだろうと思います。
あまりたくさん詰め込むとかわいそうだと思ったので、ある程度にしましたが、知っている範囲で上五島の教会がどのようにしてできたか話をしました。上五島の教会の成り立ちは、実は今週の福音を考える良い材料になると思います。今週の福音の中の、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16・24)に注目してみましょう。
どんな教会でも、完成までにはその教会の信者たちが働いて協力をしています。私たちの教会もそうです。材料を運んだり、コンクリートをこねたり、ペンキ塗りを手伝ったり、また労働の奉仕でなくても炊き出しであったり、いろんなことで協力を惜しまなかっただろうと思います。もう1つ、建設費を信者でまかなったことでしょう。
さらに、上五島の教会では、教会のために労働献金をささげていました。「日労献金」と言っていましたが、少し詳しく言うと、日曜日と大祝日に収入があった人は、収入のうちの3%を「日曜日の労働献金」として教会に納めていたのです。おそらく今でも、その習慣は残っていると思います。
長崎教区は、主日・祝日に労働することについて独特の規定を持っており、それは祝日表にちゃんと書かれています。それによると、「特殊な場合に、また正当な理由によって、主日または守るべき祝日に働かなければならない信徒は、主任司祭の許可を得た上で働くことができる。主任司祭の許可の期間は三ヶ月が限度であるから、期間が過ぎれば、また許可を願う必要がある」と規定しています。この規定に加えて、上五島の信徒は、労働で得た収入のうち3%を、教会へおささげしていたわけです。
祝日表に書かれている部分は、全信徒が目にするわけですから、すべての人に共通の規定です。ところが上五島の信徒は、それ以上のこと、つまり主日に得た収入の一部を、教会のために手放してきたわけです。それは、実際にはイエスのみことば「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」を実行していたのだと思います。
なかなか、自分で得た収入を手放すということは難しいものです。その動機付けを、きっと上五島の信徒は「神さまのため」という形で維持し続けていたのだと思います。彼らにとって、収入のうち3%をささげることが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うこと」の具体的な形だったわけです。そしてその思いは、上五島のそれぞれの教会という姿に表れています。
私たちは教会で祈る時、聖堂そのものが何か祈る雰囲気を与えてくれることを体験しています。この、自分たちにとって見慣れた教会が、すでに私たちの祈りの方向付けをしてくれていると思うのです。たとえば、自分たちの教会がずらっとマリアさまイエスさま、天使たち、もろもろの聖人方の御像が据えられた教会だとしましょう。それは、諸聖人方の取り次ぎを願う方向に、私たちを促すだろうと思います。一方でほとんど御像を置いていない聖堂であれば、まっすぐにイエスさまに祈りをささげるようにと促しているのだと思います。建てられた聖堂の趣が、私たちの祈りの方向付けをしてくれることは十分あり得ると思うのです。
上五島の教会は、私が見る限りどこでも平均的に御像が置いてありました。私は、上五島の教会の特徴は、むしろイエスのみことばを形に表そうとしたというのが特徴だと思っています。日曜日の労働で得た収入から一部を手放し、教会にささげた。その信徒たちが祈る聖堂は、祈っている時にイエスのみことばがなるほどなと心に響く聖堂に仕上がっているわけです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエスのみことばが響き渡る聖堂なのです。
イエスのみことばが響き渡る聖堂は、本当にすばらしい聖堂だと思います。今週の福音朗読に、この聖堂で耳を傾ける時、みことばがすんなり心に届く聖堂はすばらしいと思います。反対に、「イエスのみことばは理解できるけれども、この聖堂はみことばとはかけ離れた聖堂ではないか」と感じるなら、やはり建物のどこかに、神の望みに沿わない部分があるということになるかも知れません。
そして最後に、私たちはもう一つの聖堂を知っています。それは、私たち自身です。私たちは、「聖霊の神殿」と言われたりするものです。私たち自身が聖霊の神殿であれば、私たちの中でもイエスのみことばが響き渡るのでなければならないと思います。私の心に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というみことばが届いたのに、それが響かないとすれば、私はどこかで、神の望みに反する生き方をしているのではないでしょうか。
久しぶりに上五島の教会を隅々まで巡礼してみて、イエスのみことばとしっかり向き合う時間を与えていただきました。皆さん一人ひとりも、自分たちの聖堂に座って、聖霊の神殿である自分自身にも注意を向けて、イエスのみことばがちゃんと響き渡っているか、あらためて考えてみましょう。そしてこれから始まる一週間が、生活の中でイエスのみことばが響き渡るものとなるように恵みを願いたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
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