主日の福音08/08/24(No.373)
年間第21主日(マタイ16:13-20)
「あなたの答えはそれだけですか」と問われています

今日は、イエスが弟子たちに向けてなされた問いかけについて、考えてみたいと思います。イエスは、弟子たちが一瞬はっとするような問いかけをなさいました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16:15)。

この問いかけは、イエスにとっては、ごく自然な成り行きで出てきたのだと思います。イエスは、「人々は人の子のことを何者だと言っているか」(16:13)と前置きした上で、弟子たちが今持っている精一杯の信仰を引き出そうという考えだったと思います。

弟子たちが口々に言った答えは、どれも部分的にはイエスのことを言い当てていたでしょう。けれども、イエスの中には「あなたたちの理解はそこまでですか」という思いがあったのです。弟子たちは一通り答えさせられて、さらに問い詰めているわけですから、下手な答えができるはずがありません。人間の知恵に頼って答えようとして、言葉に詰まってしまうことは十分想像できます。人間の知恵でイエスの質問に答えようとしても、答えられるはずがありません。

信仰の問いかけに人間の知恵で答えようとしても十分答えることはできないということを1つの例で考えてみましょう。ここに集まっている皆さんはなぜ、今日の主日のミサに来たのでしょうか。これを例に考えてみましょう。なぜ、今日の主日のミサに来たのですか?用事でどうしても来ることができない人は別として、最初から来ようとしない人もいるはずです。そんな中で、あなたはなぜ、主日のミサに来ているのでしょう。

「日曜日の務めを果たすため」「日曜日に行かないと、何となく落ち着かないから」。だいたいの人がそういう理由で今日集まっているのかも知れません。では、「もっと他に理由はありますか」と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「もっと他に理由はありますか」と言われて、もう少し考える人もいるでしょう。「日曜日にミサに来ると、力がみなぎるから」とか「この一週間を感謝するため」とか、「イエスの声を聞くため」とか、さらに踏み込んだ答えが見つかるでしょう。

では、もう一度「もう終わりですか?理由はそれだけですか?」と言われたら、どう答えるでしょうか。もっと他に答えはないのですか?そう言われたら、何と答えるでしょうか。その時こそ、イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに答える時だと思うのです。

弟子たちに戻りましょう。イエスの問いかけに、ペトロが毅然として答えます。上手に答えなければうっかり返事なんてできないと尻込みして、口をつぐんでいる弟子たちの中で、単純で、素直な心を持ったペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(15:16)と答えます。誰も答えられずにいた中で、もしかすると誰よりも田舎者だったペトロが、聖霊に支えられてすばらしい信仰を表しました。

ここに、私たちの信仰を見直すヒントが隠されています。なぜ日曜日のミサに来るのか考えてきましたが、私たちが知恵を絞って出てくる答えは限度があるのです。さらに踏み込んだ答えをイエスに申し上げるためには、私たちの心を聖霊に解き放ち、霊の導きを願う必要があるわけです。心を聖霊に開け放つ時、私は今までにない答えを、イエスに申し上げることができることでしょう。

私はなぜこの信仰の道を歩んでいるのか。人間の知恵で答えてもそれはたかが知れています。むしろ、実際は人間のどんな知恵によっても、正しく言い当てることはできないと悟り、聖霊の導きを願うこと、それが私の信仰を純粋にしてくれるのではないでしょうか。

ペトロが信仰告白をしたとき、イエスはペトロに向かって、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」(15:15)と仰いました。ペトロの中にあった良いものを、神が言葉にしてくださったのです。ペトロが温めていたイエスに対する信仰を見て、「幸い」と仰ったのです。それはたとえば、「あなたはわたしのすべてです」というような思いではなかったでしょうか。

ペトロは聖霊に心を開き、すばらしい答えをイエスに申し上げました。私たちも、自分で考えた答えにしがみつかないようにしたいものです。自分の知識を駆使して、これで十分だろうという答えは、イエスのたった一つの言葉でひっくり返されてしまいます。「あなたはその答えで本当に十分だと思うのか」。そう言われると、きっと私の精一杯の答えも、かすんでしまうことでしょう。

「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」。主日のミサに来た時は、私に問いかけるイエスとじっくり向き合う良い機会です。しばし立ち止まって、イエスの問いかけに向き合いましょう。聖霊が私を照らし、私の口にイエスへの答えを上らせてくださることを信じましょう。

人間の言葉に頼らずに、聖霊の導きに従ったペトロの信仰告白を、イエスは喜ばれました。なぜ私たちはミサに行くのか、なぜ健康で幸せな時も祈りが必要なのか、なぜ受けた信仰を次の世代に伝える必要があるのか、等々。私の信仰の知識など、ちっぽけなものに過ぎません。大切なのは、聖霊に導かれ、神に支えられて言うべき言葉が与えられるのだということを、心を開いて受け入れることです。その証拠に、聖霊に支えられてイエスに表明したペトロの純粋な信仰は、今の教会を支える一枚岩となっているのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マタイ16:21-27)
‥‥‥†‥‥‥‥