主日の福音08/08/15(No.371)
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
完全な信頼を寄せるマリアに神は報いる

今日は聖母の被昇天の祭日です。ルカ福音記者によると、エリザベトを訪ねていったマリアの口から、神をたたえる「マリアの賛歌」がほとばしり出たのでした。この「マリアの賛歌」を通して、体も魂も天に上げられるほどすぐれていたマリアの信仰を学びたいと思います。きっと私たちにも、何かを教えてくれる姿がマリアの中に見つかると思います。

「マリアの賛歌」と呼ばれるマリアの心の底からの声を聞きましょう。マリアは次のように言いました。

1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

考えたいことがあります。それは、「この賛歌はどのようにして後の時代に伝わっていったのか」ということです。マリアがルカに直接言い残したとは考えられません。ルカは12使徒ではありませんので、マリアから口伝えに聞くことはできませんでした。すると、マリアから直接この賛歌を聞いた人は分からないけれども、マリアのすばらしさを伝えるものとして人々が残してくれたと考えられます。

では、もし仮に、マリアの目の前にいたエリザベトのおかげでこの祈りが伝わったとしましょう。エリザベトは確かに目の前にいましたが、けっこうな長さのこの賛美を、エリザベトが1度聞いただけでそれを人に伝えることができるでしょうか。私は不可能だと思います。むしろ、マリアはこの日以来、繰り返し賛歌を唱え、神のはからいのすばらしさをエリザベトと一緒にたたえていたのではないでしょうか。

そのことを想像させる箇所が、今日の朗読の最後の箇所です。「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」(ルカ1・56)。この3ヶ月の間に、マリアとエリザベトの間で、「マリアの賛歌」は繰り返し唱えられ、暗記するほどになっていたのではないでしょうか。私にはそう思えます。

そしてマリアは、自分の家に帰ってからも、ずっと「マリアの賛歌」を唱え続けたはずです。なぜかと言うと、マリアの胎内には、イエスが宿っていたからです。「わたしの魂は主をあがめる」という「マリアの賛歌」を唱え続けさせる根拠が、マリアの胎内に宿っていたからです。

マリアは、ずっと賛歌を唱えたかも知れません。そうすると、多くの人が、「マリアはこんな賛歌を口ずさんでいた」と記憶することになります。そうして、マリアの賛歌は人々の記憶に残り、ついにルカ福音記者にも伝わってきたのではないでしょうか。まとめると、マリアは、彼女を通してなされた神の偉大なわざを、繰り返し、度ごとに、人々と共にたたえ続けたということです。

もう1つ付け加えるなら、マリアはイエスと共に暮らした約30年の間も、「マリアの賛歌」を唱え続けたのではないでしょうか。目の前にいるイエスは、神がマリアに目を留めてくださったことの「目に見えるしるし」だからです。ここで私が言いたいのは、イエスは「マリアの賛歌」を深く心に刻み、マリアが賛美の形で言い残したことを、後に実現したということです。

マリアの賛歌から拾ってみましょう。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」(1・48)「思い上がる者を打ち散らし」(1・51)「身分の低い者を高く上げ」(1・52)さらに「憐れみをお忘れになりません」(1・54)。イエスは、マリアがはるか先に言い残した人類に対する神の計らいを実現したのです。

マリアの神に対する絶対の信頼は、「マリアの賛歌」として人々の口から口に伝わりました。神の計らいを信じて疑わないマリアの生き方が間違ってないことを神の独り子イエスは御自分の救いの働きによって証明してくださいました。そして聖母の被昇天は、神の計らいを信じて疑わないマリアに目を留めてくださったことの最高の証しではないでしょうか。
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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(マタイ15:21-28)
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