主日の福音08/08/10(No.370)
年間第19主日(マタイ14:22-33)
信仰表明も礼拝も真剣勝負のようなものです

今日の福音朗読は、湖の上でペトロの信仰が試され、信仰がぐらつき、イエスにもう一度支えてもらったという出来事が含まれています。信仰面での訓練と言っても良いと思いますが、ペトロは、ほかの箇所でも信仰の訓練を受け、その度に信仰がぐらつき、イエスに助けられています。まず、ほかの箇所も拾い上げてみましょう。

ペトロが経験したほかの信仰の訓練の1つは、イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行った時のことです。イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16・13)とお尋ねになり、さらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16・15)と問いかけ、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えました。

この答えは立派だったのですが、直後にイエスが、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け(16・21)ると、ペトロは自分の信仰表明がぐらついてしまい、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16・22)とイエスをいさめます。ところがイエスから叱られ、本来の弟子のあるべき姿を諭してもらいます。

もう1つは、イエスの最後の場面に当たり、最高法院で裁判を受けている時、ペトロは3度イエスを知らないと言いました。ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26・33)と言い切ったのですが、その信仰はぐらつき、3度目に知らないと言う時には、「呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓って打ち消した」(26・74)のです。この時もイエスは黙ってその過ちを背負い、赦して立ち直らせてくださったのです。

こうして並べて考えてみると、今週の湖の上での出来事は、ただ単にペトロがイエスに信頼して湖を歩き始め、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので助けてもらったという出来事の記録ではないような気がします。12人の弟子の代表であるペトロですら、イエスへの信仰はある時揺らいでしまい、イエスに助けてもらう必要がある。そして、イエスはほんのわずかな間さえも信仰を固く保つことのできない弱い人間に必ず手を差し伸べて助けてくださり、ちゃんと使ってくださるということです。

皆さんは、ペトロをだらしないなぁと思うでしょうか。湖の上で沈みかけて怖くなり、「主よ、助けてください」(14・30)と叫んだペトロ。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16・22)とイエスを心配したペトロ。また、「そんな人は知らない」と、いよいよの場面で尻込みしたペトロ。彼は情けない、だらしない使徒だったのでしょうか。

私は、だれも自分のことを棚に上げてペトロのことをとやかく言えないと思います。簡単な例を挙げましょう。皆さんはミサの時や祈りの時に気を散らすことがあるはずです。赦しの秘跡の告白でそのことを言ったりするでしょう。こんなささいなことで心が散り散りになる私たちが、ペトロのことを言えるはずがありません。

私はミサ中または祈りの時に気が散ったというのはたいしたことではないと思っています。はっきり言うと罪ではないと思います。なぜ気が散ったかは罪の材料になり得ます。たとえば近くの人がミサの間にあくびをした。「あの人はミサの時にあくびなんかして。失礼な人だわ」と思った。そう思っていることは罪になるでしょう。なぜ気が散ったかを言わなければなりません。気が散りましただけでは告白の仕方が不十分です。

祈りの時に気が散りましたというのも同じことです。気が散ったことはたいしたことではありません。罪にも入らないかも知れません。問題は、なぜ気が散ったかです。こんな理由で気が散りましたと告白で言わなければ、その人の告白は不十分です。家庭で祈りをしている時にテレビのことを思い出した。テレビを消してないなぁとか、次の番組は何だったかなぁと思った。それは罪の材料になり得ます。そこまで言わなければ告白になっていません。

ちょっと道をそれましたが、私がこの話をしたのは、私たちは自分のことを棚に上げて、ペトロのことをとやかく言えないということを言いたいのです。むしろこのペトロの出来事を通して、イエスが彼に何を期待しているのか、また、わずか1時間のミサの礼拝の中でもセミの声に引きずられ、周りに座っている人に気を取られたりして気が散る弱い人間である私たちに、イエスは何を求めているのかを学び取るべきだと思います。

私は考えるきっかけとして、座禅を思い浮かべました。座禅を組むのはどんな仏教の宗派か分かりませんが、いったん座禅を組むと、それが終わるまで他のことは一切頭の中から追い出さなければなりません。何か考え事をしていると、指導してくださる方はそれに気づき、長い木の棒でピシャッとたたくわけです。

この座禅で気が付くのは、座禅の間は、座禅よりも大事なことは何もないと気づく必要があります。よくよく考えれば、座禅よりも大切なことがあるかも知れません。家族が重い病気にかかっているとか、今日までに解決しなければならない問題を抱えているとか、それらが本当は座禅よりも大事かも知れません。

けれども、もしもそのようなことが頭に浮かべば、指導者は容赦なくその人の肩をピシャッとたたくことでしょう。この座禅は、私たちにミサのあるべき姿や祈りの心構えをよく教えてくれると思います。ミサに参加していて、隣の人があくびをしたかも知れませんが、それはミサの大切さとは比べようもないくらいちっぽけなことです。隣があくびをして、「あの人はこんなところであくびをして」と思ったら、本当は指導者から肩をピシャッとたたかれてもおかしくないことなのです。

ペトロは信仰の訓練を受けている時、イエスに思いを向けることだけ考える必要がありました。湖の上を歩いている時、イエスにしっかり向かうことだけ考える。風が吹いても、足もとが沈み始めても、ペトロにとって大事なことは、イエスが「来なさい」(14・29)と言ったその一言だったはずです。いっさいのものを頭から追い出して、イエスに信頼することを、ここでは教えようとしたのだと思います。

同じことは私たちにも求められています。ミサや祈りが始まってから終わるまで、もっと大切なことは何もないのだと、固く心に決めてみてはいかがでしょうか。いっさいを考えの外に置いて、説教であれば説教を聞き、パンとぶどう酒がイエスの体と血に変わる聖変化の場面であればその出来事に、いっさいのものを外に置いてそのことだけに心を向ける。これが私たちの信仰の訓練につながるのだと思います。

ミサの1時間さえも、信仰がぐらつく私たちです。ミサは、イエスと私たちが最高に深く出会う礼拝の場です。それ以外に考え事は何も必要ありません。だれかがあくびをしようが、出たり入ったりしようが、イエスと出会っていることより大事なことは何もないのです。もしそのことを疑って、イエスを横に置いて立ち上がった人に気を取られるなら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14・31)と肩をピシャッとたたかれることでしょう。

ペトロは信仰を言い表すことが真剣勝負であることを思い知らされました。イエスが命を分け与えるという真剣勝負の場面であるミサをもっと集中して過ごせるように、私たちも力を願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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