主日の福音08/07/27(No.368)
年間第17主日(マタイ13:44-52)
あなたの決断に迷いはありませんか

梅雨が明けてから、魚釣りに行き始めました。私は魚釣りに行くと、「釣れないからもう帰ろう」という気持ちになることはまずありません。釣れない日は、何か釣れるまでと粘りに粘って帰ろうとしません。または、さっそく何かが釣れた日も、もっといい魚が釣れるのではないだろうかと思ってなかなか帰ろうとしません。もしもこういう人間を待つ家族がいたら、心配でたまらないことでしょう。

どちらにしても、私はいったん魚釣りに行くと、満足してこれで帰ろうと決めるのが難しい人間なのです。その1匹が釣れたからあとはもう釣れなくても満足。いつ帰ってもいいよ。そんな1匹はどの魚だろうかと考えてしまいます。自分勝手な考えですが、釣れている日は、もっといいのが釣れるかも知れないと考えてしまうのです。

今週の福音朗読も、少し状況が似ているような気がします。畑に宝が隠されていて、見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買います。畑に隠されている宝を見つけたから、もうこれで満足できる。たとえ話のこの人は、自分なりの見極めをして、大切な宝を手に入れました。

もう一つのたとえ話の商人も大胆に決断をしています。商人は良い真珠を探しています。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買うというのです。

たとえ話に登場する人は、見極めのできる人、決断に迷いのない人だと言えます。畑に隠されている宝も、それ以上にすばらしい宝に出会うかも知れません。良い真珠を探す商人も、その時まで持ち物を売らずに待つことも考えられます。けれども、実際にはそれ以上の宝に出会う可能性は低いと思います。それなのに、欲に目がくらむと、大切なチャンスを逃すことになります。

どこで満足できると考えるか。この点を今日は問われていると思います。それは生き方を問われているのであって、正しい人々と悪い者どもを天使たちがより分けることにつながっていきます。正しい人々と悪い者どもの区別がどこかにあるはずです。私たちは、何かの物差しで、人生の総決算として正しい人々であるか、悪い者であるか、区別されることになるわけです。

正しい人々に入れてもらえる基準は何でしょうか。実際の場面を考えてみましょう。私が釣りに行って満足できるのは、人に見せびらかせる魚が釣れた時かも知れません。よくやることなのですが、ボートで港に戻ってくるときに「誰か近くに人がいないかなぁ」と思って港に入ってきます。

なぜ港に戻って人を探すかというと、誰かいればその場で見せびらかして、人に知らせてもらおうという魂胆があるのです。まさに、自分勝手な物差しです。このままでは、悪い者どもに入れられてしまうことになります。

たとえ話に登場する人のように、見極めのできる人間になるためには、誰に対して「今日はこれでいい。これで十分だ」と思うべきでしょうか。これまでの私は、自分に対して「今日はこれでいい」と言い聞かせていたかも知れません。むしろ私は、神に対して、「今日はこれくらい釣らせてもらったから、感謝します」と言える人間にならなければと思うのです。

自分に満足できるまで粘るのではなくて、釣れても釣れなくても、神さまに感謝して帰ることができる。「今日はこんなに釣れました。感謝します」「今日は釣れなかったけど、それでも感謝して帰ります」こんな物差しでいられて初めて、人生の総決算の時、私は正しい人々の中に入れてもらえるのだと思います。

もちろんそれは人生のすべてに当てはまる物差しですから、司祭としての務めも、自分が満足できるからいい働きができたと考えるのは身勝手なことで、神さまに感謝できる働きを求める。これが最後の時に正しい人々の中に入れてもらえる働きぶり、決断の仕方なのだと思います。

他の場面を考えてみましょう。私たちは毎日体を動かして働いています。考えてみると、私は自分に満足することばかりを追い求めてきたのではないでしょうか。自分に納得できる仕事ができたときは満足するけれども、納得できなかった日は不満が残り、人にその不満をぶつけたりしていたのではないでしょうか。本当は、そうではない物差しが必要だったのです。

私は、一日が終わるとき、神さまに感謝しますと言って眠りに就くことができるでしょうか。一日の内容は、自分としては満足できないものかも知れません。不満の残る仕事ぶりであったり、自分の働きぶりが理解されなかったりしたかも知れません。

もしそのことを自分が満足するかどうかで計るなら、感謝の気持ちはわかないでしょう。けれども、自分としては不満の残る一日であったとしても、「今日も一日、あなたに感謝して眠ります」と思うことができるなら、私たちは神さまの前で正しい人々に数えてもらえます。

自分を物差しで考えれば、もっと欲張って働くこともできたでしょう。もっと自分の好きなことをし続けることもできたでしょう。自分を物差しに考えるのではなく、神に感謝できることが大事だと考える。こんな迷いのない決断、見極めのほうが大切なのです。

畑の宝を見つけた人も、もっといい宝を探そうと思えばできたかも知れません。良い真珠を探している人も、あともうワンランク上の真珠を欲しがれば、もっと粘ってみるということもできたでしょう。けれどもたとえ話の中の人々は迷わず決断したのです。それは、「わたしはこれで十分神さまに感謝できる」その線を見極めたからだと思います。

上を見ればきりがないと言ったりします。上を見て欲張るのは、自分が満足できるかどうかで生活を見渡しているからです。今、神さまに感謝できるかどうか。私と神さまと向き合って考えてみてはいかがでしょうか。今日のたとえ話で言われている「正しい人々」とは、「今日一日を神さまに感謝できる人」だと思うのです。誰かと比べたり、上を見て欲張ったりして感謝できない毎日を過ごす人は、目の前に感謝できる材料があっても感謝できないという、「悪い者ども」ということになるのです。

私は、今日一日を神さまに感謝できるでしょうか。今日を神さまに感謝できないとしたら、いったいいつ神さまに感謝できる日が来るのでしょうか。一日一日が、神さまに感謝できる、そんな物差しで過ごせる人に変わることを、ミサの中で願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
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