主日の福音08/07/13(No.366)
年間第15主日(マタイ13:1-23)
茨におおわれた心にもイエスは種をまきます
今日の福音は、皆さんもよく知っているたとえ話の1つ、「種まきのたとえ」です。イエスはつねに、たとえの向こう側に、本当に伝えようとしている何かを携えておられます。イエスが今週私たちに伝えようとしておられることに、一人ひとりたどり着けるように、今週の福音朗読を味わってみましょう。
イエスのたとえを聞きながらも、みなさんの中には種をまく人の行動があまりしっくりこないという方もおられると思います。心の中でこう考えたかもしれません。「この人はどうして大切な種を道端に落としたりするのだろうか。石だらけで土の少ないところに落としたりするのだろうか。わたしだったら用心してそんなことは絶対しないのに。」
もちろん、日本の畑作や、稲作の考え方からすると、福音に登場する人の行動は無駄が多く、いかにも不注意、軽率な行動のように受け取られます。けれども当時のパレスチナで、畑作がどのように行われていたかを知っておくと、種まく人の態度に気を取られることも少なくなると思います。
当時のパレスチナ地方の種まきは、畑を作ってから種をまく日本の習慣とは正反対で、畑にする予定の場所一面にまいていました。「ここからここまで、耕して畑にする」そう決めた場所であれば、どこにでも種はまかれました。
ですから農閑期に人が歩き、踏み固めて道のようになっている場所や、畑を休ませている間に茨が生え出たところも、あとで耕して土をかぶせる予定がありますので、かまわずに種をまいたのです。
「ある種はどこそこに落ちた」という言い方は、人間の不注意でそうなったのではなくて、畑一面に種をまいた結果、そのうちのいくつかは道端、土の少ない石地、茨の生え出たところに落ちていったということなのです。
イエスからこのたとえを直接聞いた人々は、実際種まきをこのようにしていたので、種まく人の態度に気を取られず、本当にイエスが伝えたいことをまっすぐに考えることができました。私たちがイエスのたとえを聞くときは、習慣の違いに注意しないといけません。そうしないと、道端に種をまくなんてどう考えてもおかしいと、出だしでつまずいてしまうからです。福音に登場する種まく人は、はじめから無駄なことをしようとしているのではなくて、どの場所も耕して、それなりの畑にしようと考えているのです。
この点がわかると、イエスのたとえから本当に伝えたいことに心が向かい、私たちを動かすようになります。畑として利用しようと考えている土地全体を、私に当てはめてみましょう。すると、イエスは種まく人として、私たちに御言葉の種をまき続けておられるのです。
畑にする土地全体は、私の心です。その中にはいろんな状態の場所があります。人間的な弱さがあって、いつも同じところへ傾いている部分もあるでしょう。たとえば傲慢とか、虚栄心とか、しばしば陥る弱さは、同じ傾きで踏み固められて、一つの道のようになってしまっています。
また、自分の考えだけにこだわって人を受け入れないという部分もあるでしょう。人の勧めを最初からはねつけて、関わり合おうとしなくなるとき、そこは耕すのが困難な、石だらけの場所になってしまいます。
自分の好きな人とはつきあうけれども、嫌いな人とは目も合わせないということもあります。時として薬になる話も、その人が嫌いだから聞かないというようなことをしているうちに、雑草が生えてしまうわけです。
心はいろいろな要素を含んでいますが、手を加えればどの場所でももう一度畑として使えます。ある場所はとても手間がかかるかもしれませんが、それでも立派に畑に戻すことができるはずです。「御言葉」そのものをまこうとしておられるイエスは、種の持つ力を十分ご存じなので、道のようになったところにも、石地にも、茨の生えた場所にも、種をまくのです。どの場所も、イエスが「ここを畑にしよう」と決めてくださった場所だからです。
もちろん、土地はよい土地であるに越したことはありません。良い土地、肥えた土地とは、イエスの言葉を聞いて、それを受け入れる土地のことです。土地の持っている力を引き出す神の言葉を、素直な気持ちで受けとめる心が、御言葉の力で100倍、60倍、30倍の実りになって現れるのです。
余計に耕す必要がある場所をそのままにしておくと、実りはまったく期待できません。「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」「石だらけの所に蒔かれたものとは、こういう人である」「茨の中に蒔かれたものとは、こういう人である」それぞれ残念な結果が示されています。妨げとなるものを取り除き、十分に耕せばきっと実りをもたらしたはずなのに、まかれた種に見合う努力をしませんでした。十分可能性があったのに、です。
もう一度、私の心を見つめてみましょう。種をまかれた場合、あなたの心はどれくらい耕さなければなりませんか。神はおりが良くても悪くても、御言葉をまき続けます。準備のできていない畑でも、種をまいておけば種はとどまり続けます。耕すのがどんなに難しい心であっても、神はそこに種をまき、その実りまで面倒を見ようとされるのです。
最後に、今日朗読した箇所の、最後の言葉を読み返しましょう。「耳のある者は聞きなさい」(13:9)。イエスは、御言葉が必ず実をつけ、かたくなな心に対しても必ず勝利することを確信しておられるので、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。御言葉そのものが持っている力が、冷えた心を暖め、堅い心をやわらげ、曲がった道をまっすぐにしていくからです。
私の中に、神の言葉が日々まかれています。豊かな実りに与るため、実りにはっきりと気づかせてもらうため、「主よ、あなたの言葉を響かせてください。わたしは耳を澄まして聞いています」と祈ることにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マタイ13:24-43)
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