主日の福音08/06/29(No.364)
聖ペトロ聖パウロ使徒(マタイ16:13-19)
使徒の生き方を鏡として

今日6月29日は「聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日」です。そして同時に、日曜日にも当たっていて、日曜日でありながら、聖ペトロ聖パウロ使徒の典礼でミサが行われています。そしてもう1つ、今年2008年の6月28日から、来年2009年の6月29日まで、教皇ベネディクト16世によって「聖パウロ年」が定められています。そこで、教会の礎となってくれた聖ペトロと、これから始まる聖パウロ年の中心人物聖パウロについて、いっしょに考えてみたいと思います。

まず福音朗読から聖ペトロについて考えてみましょう。私は、ペトロに期待されている1つの特徴は、「イエスの呼びかけに答える」「イエスの問いかけに答える」ということだと思います。今週の福音朗読では、イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16・15)という問いかけに対して、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えています。

ほかにも、イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14・27)と話しかけた時に、ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(14・28)と答えています。ペトロは、イエスに答えるという使命を受けていたということです。

ペトロはイエスの問いかけ、呼びかけに答えたわけですが、それは、イエスに最後までついて行ったということでもあります。ただ返事をしたということではなくて、ペトロは困難を感じた時も、イエスに信頼を寄せて、最後までついて行ったのです。そのことが、最後にはペトロの殉教につながっていきます。言い伝えによると、ペトロはローマで殉教したのですが、イエスと同じはりつけの形は自分にはもったいないことだということで、逆さにはりつけになったとされています。

そこでペトロの姿から、私たちも1つの模範を学びましょう。イエスの呼びかけ、問いかけに、私たちも答えるということです。何も優秀な答えをイエスは求めているわけではありません。呼びかけに、「はい」とか「引き受けてみます」と答えることが大切です。ペトロはつねに、答えは不十分かも知れないけれども、問われれば自分の言葉で返事をしたのです。1人ひとり、「わたしはイエスに問われたら答えてみます」という気持ちをペトロに倣って育てていきたいと思います。

次に、聖パウロについて、第2朗読を通して考えてみることにしましょう。第2朗読は「テモテへの手紙」ですが、選ばれている箇所からは殉教の時が近づいていることが分かります。「世を去る時が近づきました」(4・6)とあるからです。死を目前にしての手紙なのですが、落ち着いた、静かな心でその時を待っていることが伝わってきます。

人生の最期の時を、落ち着いた静かな心でいられるというのは、並大抵のことではありません。そこまでたどり着くためには、それなりの自信が必要でしょう。パウロはこれまでの歩みに自信があるので、静かな心でいられたのだと思います。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(4・7−8)。

パウロは「義の栄冠を受ける」と言っていますが、「義の栄冠」とは何なのでしょうか。殉教の後にあるものですから、それは「永遠の生命」ということになります。パウロは、なすべきことは果たしたし、「永遠の生命」が得られるので、心静かに過ごせるのです。

私たちはどうでしょうか。「永遠の生命が得られるので、心静かにいられる」ときっぱり言えるでしょうか。本当に、「永遠の生命への希望」だけで不安なく過ごせるでしょうか。「永遠の生命」を得られることで安心できるためには、日頃から、「永遠の生命」が何にも代えがたい価値があると理解している、常々そう思っているのでなければなりません。

実際の生活は、さまざまなものに価値を見て、「永遠の生命」だけを見つめて生きているとは言えないと思います。ですから、残念ながら、パウロのような心静かな状態で人生の最期を迎えるのは難しいのではないでしょうか。最後まで心残りに思うことがいろいろ浮かび、あーしておけばよかった、こうしておくべきだったと悔やむのではないでしょうか。

パウロと同じように、「永遠の生命」に最高の価値を見いだして生きた人が、身近にいるでしょうか。私は、11月24日に列福される188殉教者こそが、パウロの生き方をそのまま受け継いだ身近な人々だと思います。

今日、皆さんの手元に、「恵みの風に帆をはって」という本が届いたと思います。ペトロ岐部と187殉教者の物語が描かれた絵本です。「永遠の生命」をふだんから最高の価値あるもの、何も代えがたいものと考えていた人々の生き方をここから紹介したいと思います。

「小倉・大分・熊本の殉教者」という項目の中に、加賀山隼人とその娘夫婦たちの殉教があります。加賀山隼人の娘みやは、小笠原家に嫁ぎました。小笠原玄也と、その妻みや、家族あわせて15人が殉教した時、遺書を残しましたが、妻みやの遺書にはこう書かれていました。「なんとありがたいことでしょう。棄てることができない教えですので、このようなことになりました」。

これは、人生の最期の時まで、落ち着いた心で過ごしたパウロの信仰の生き写しではないでしょうか。私たちにも、みやの残した手紙は生き方のお手本を示してくれていると思います。「棄てることができない教えですので、このようなことになりました」。

聖パウロの生き方は、「永遠の生命」をしっかり見据えた生き方でした。パウロから、私たちも同じ生き方を写し取りましょう。今年のパウロ年の中で、「わたしが持っているのは、棄てることができない教えです」ときっぱり言えるような信仰を目指して歩んでいきましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マタイ11:25-30)
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