主日の福音08/06/22(No.363)
年間第12主日(マタイ10:26-33)
人々を恐れてはならない

今週の福音朗読のための説教を考えながら、まず何から話し始めようかなと思ったときに、1つのことが浮かびました。それは、「人は自分の殻に閉じこもってしまうとなかなか抜け出せない」ということです。自分の殻に閉じこもり、恐れにとらえられていると、それを他の人が自由にしてあげることはなかなか難しいのです。恐れにとらえられている人を解放してくれる方は、実はイエス・キリストただ一人だということになります。

今言ったような体験を、私自身思い知らされる出来事がありました。その時のことが手帳にメモ書きしていたのではっきり思い出せますが、1月21日月曜日のことです。この日の晩、夜8時に五島の実家にいる次男から電話がありました。父の病状についてでした。父が肺ガンの告知を受けて、あと1年も持たないという連絡でした。私は電話で告げられたことを正直受け入れることはできず、呆然としてその日眠りに就いたのでした。

翌火曜日、私は教区の本部会議に出席するために朝8時15分の船に乗りました。いろんな理由で長崎に向かっている人がそこにはいました。船内にいる人々を見回しながら、私はこう思ったのです。「どうしてこの人たちには来年があって、自分の父には来年がないのだろうか」「なぜこの船に乗っている人はこれからも生きることができて、わたしの父は未来が奪われてしまうのだろうか」。

情けない話ですが、そんなことを思ったのです。その日の同じ時間、皆さんのうちだれかが一緒に船に乗っていたかも知れません。それでも私の心の中では、「なぜ?どうして?」という思いがあったのです。

その思いは私の心の中でどんどん大きくなり、たくさんの見知らぬ人が信号機の前で信号が変わるのを待っているときも、路面電車の中でも、バスに乗り継いだあとも、「なぜこの人たちは生きることができるの?」と思ったのです。ふつうでは考えられない心理状態ですが、手帳には当時のことが詳しく書き込まれていました。

今、私は船に乗っても「あの人はなぜ生きることができるの?」とは考えません。見知らぬ人の中にいても、人々が楽しそうにしている姿を見ても、当時のような思いはありません。殻に閉じこもっていた状態から解放されて、自由にしてもらっているからだと思います。心が閉ざされていたとき、自分を解放してくれる人はどこにもいないように思われました。ところがイエスは、繰り返し私の心に「恐れるな」と呼びかけて、私を恐れという「牢屋」から自由にしてくれたのだと思います。

人を不自由にしてしまう牢屋は、人によっていろいろかも知れません。理由のない被害を受けて、理由がないためになおさら許せない。こんな人は「怒り」という牢屋の中に閉じこめられているかも知れません。はっきりしないけれども圧力をかけられている。あるいはいつも付きまとわれている感じがする。そのために「疑い」という牢屋の中に閉じこめられているかも知れません。

だれもが、何かの理由で不自由にさせられることは起こりえます。その檻の中から私を解放してくれるのは、イエス・キリストお一人です。しかも、「わたしと一緒にいなさい」と呼びかけて、私たちを恐れから解放してくださるのです。

「イエスと一緒にいる」とはどういうことでしょうか。それは、イエスが立っている場所に、自分も立つことです。ではイエスはどこに立っていたのでしょうか。祈るために神殿に立ち、弱い立場の人々に声をかけ、走り寄って手を差し伸べるために立ち、聖書を朗読するために人々の前に立ったのです。

こうしたイエスの姿を思い起こすとき、私たちに求められていることがあると思います。それは、「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」(10・32)ことです。祈るために教会に来て、イエスと一緒に祈るなら、私はイエスの仲間であると言い表していることになります。日曜日のミサで聖書を朗読するために朗読台に立つとき、また、弱い立場の人に声をかけ、手を差し伸べるとき、私たちは態度で、イエスの仲間であると言い表しているのです。

また、「兄弟を何回赦すべきでしょうか」と悩んでいるとき、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18・22)そう言って、イエスはそばにいてくださいます。ですからだれか身近な人を心から赦してあげるなら、私たちはイエスの仲間であると言い表していることになるのです。私たちが恐れという牢屋から自由になるチャンスは、身近なところにたくさんあって、それを教えてくれるのは聖書のみことばだと思うのです。

ふり返ってみると、人々が生きていて父が残り少ない運命にあったとき、私は自分自身と父のことをイエスに委ねることができてなかったのだと思います。イエスに命を委ねるしかないのに、委ねきるだけの信頼が持てず、恐れていたのだと思います。

ですが今は、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」という言葉をはっきり聞き取ることができます。体は今ここにないかも知れません。けれども、父がイエスから数えられていると信じることができるし、「恐れるな」というイエスの声は、私の中で日増しに強く聞こえているのです。

もしかしたら、「恐れるな」というイエスのみことばは、恐れや不安でがんじがらめになった経験があって初めて、理解できるようになるのかも知れません。もしも皆さんが、「こんなに辛いのに、神はいるのだろうか」と思い悩んでいるとしたら、きっとそれは、もうすぐイエスの声を聞くというところまで来ているのです。

「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」(ルカ18・4)と言っている人よりも、神に苦情を持ちかけるくらいに思い悩んでいる人のほうが、「人々を恐れてはならない」と声をかけてくださるイエスの近くにいるのかも知れません。
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‥次の説教は‥‥
聖ペトロ聖パウロ使徒
(マタイ16:13-19)
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