主日の福音08/06/08(No.361)
年間第10主日(マタイ9:9-13)
イエスは罪にまみれている人を飛び込んで救った

無事に父・中田輝明を送ってきました。高島・大明寺・馬込教会の信徒の皆さんには大変ご心配をおかけしました。あわせて父のためにお祈りくださり、ありがとうございました。中には五島まで足を運んでくださった方もいらっしゃいます。重ねて感謝申し上げます。

皆さまからのご厚意に、何もお返しするものがないのですが、せめて何かのしるしをと思いまして、父の通夜の時の説教と、葬儀ミサの時の説教を黄色い紙に印刷して教会玄関に置いています。もしよかったら、お一人ずつお持ち帰りになってください。本当にありがとうございました。

かれこれ一週間近く、父のそばにおりました。日曜日も含めて一緒にいたことはありませんでしたので、神父になってこれまででいちばん長い滞在になりました。葬儀ミサの説教では話さなかったのですが、父は教会ではロザリオ会という信心会の会長を務めていました。担当のお医者さまは5月30日(金)の夜が最後でしょうと仰っていたのですが、31日(土)の夜11時5分まで持ちこたえてくれました。思うに聖母月のロザリオの先唱の務めを、最後までまっとうして旅立ったのかなと思っております。

私が一週間近く留守していた間、海の魚はほっと胸を撫で下ろしていたことでしょう。戻ってきましたので、これからはそうは行きません。ありがたいことに馬込のお父さんたちが船の底を洗ってペンキを塗り直してくれているようですので、四十九時間はとっくに経過したことですし、準備が調ったらまた海を荒らしに行こうと思います。そうは言っても、今週火曜日からは司祭の年の黙総会、来週には教区広報担当者の全国会議で東京に出張ですので、結局は四十九日過ぎてからになるかも知れません。

さて今週の福音朗読は、マタイを弟子にする場面が選ばれました。マタイは徴税人で、集めた税を征服者であるローマに納める仕事をしていました。取り立てた税をローマに納めるだけでも腹立たしいのに、彼らの懐も肥やしていたと言われますので、人々から嫌われ、罪人扱いされていた人です。

この徴税人マタイに、イエスは近づき、声をかけました。マタイは声をかけてもらった感謝の気持ちを表すために食事の席を設けたようです。そこには同業者の徴税人や、その他罪ある人が大勢集まっていました。イエスは徴税人マタイに近づいただけでなく、その他の罪人がイエスの元にやって来ることも受け入れてくださったのです。ファリサイ派の人々は、徴税人や罪人たちと交わることを恐れました。宗教的な汚れをこうむりたくなかったのです。

ファリサイ派の人々は、宗教上の一切の汚れを避けることで身を守って生きてきた人々です。他の人がどうなろうが、自分さえ汚れを受けなければそれで良かったのです。けれどもイエスは、自分のことは横に置いて、人のためにすべてをなげうつ人でした。罪人を救うために、罪人の中に飛び込み、重い皮膚病、生まれつき目の見えない人、さまざまな苦しみを抱えている人のそばに寄り添う人でした。それは、ファリサイ派の人々とは全く違った生き方だったのです。

私が長崎の神学校にいたとき、毎月告解を聞くために外から神父さまが来ていました。ときどき若い新米の神父さまが来ていましたが、その新米の神父さまは私たちの告解の準備のために次のようなことを話してくれました。

「畑の芋は、当たり前ですが畑に育ちます。みなさん、一度芋掘りをしてごらんなさい。きっと手は泥だらけになることでしょう。けれども、こうして泥まみれにならなければ、あなたがたは畑の芋を手にすることはできないのです。掘った芋と出会うためには、どうしても泥まみれになる必要があるのです。

そしてイエスさまも、言わば罪という泥に埋もれているあなたがたを、泥まみれになって掘り起こし、罪の中から拾い上げてくださいます。これがゆるしの秘跡です。イエスさまは遠くから、手を汚さずに罪をゆるすのではありません。泥まみれになって、罪という泥をかき分けて、あなたを救ってくださるのです。だから信頼して、罪を告白しなさい。」そんな言い聞かせをしてくださいました。

イエスは今日の福音朗読の中で、ファリサイ派の人々に、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」(9・13)と仰いました。ファリサイ派の人々に言ったというのは、泥まみれになって人を救おうとしないすべての人に言ったのと同じことです。私たちがこれまでに、手を汚さないように遠く離れて様子を見るといった経験があるとしたら、本当にそれでよかったのかなと考えてみる必要があるでしょう。

泥まみれになるということで、私は高校生の頃に父の牛小屋の仕事を手伝ったことを思い出しました。父はあまり仕事を手伝うように言いませんでした。おそらく、1日牛小屋の中にいて牛小屋の掃除をすれば、臭いは体に染みつき、ヘトヘトに疲れて勉強どころではなくなることを心配していたのでしょう。

たしかに、牛小屋での手伝いは生まれて初めて経験するきつさでした。声も出なくなるほど疲れる仕事でした。牛がボトボト落とした糞をスコップで拾って回り、それを乾かしては空になった飼料袋に袋詰めにする仕事でした。立ちくらみするほど暑くなった夏の牛小屋の中で、肥料になる牛の糞を、1日20袋、多いときは40袋詰めて、注文のあった農家や個人の家に配って回りました。

「濡れた堆肥はいらない。乾いたのを持ってきてくれ」。それは、口に出しては言いませんが、「自分たちは手を汚したくない」という意味でした。そんなことを言われながらも、父は堆肥を運んだ家から肥料代をもらうと、「どうもおおきに」と言って黙って帰って来ていました。

そんな父の姿を見るとき、泥まみれになって仕事をし、泥まみれになって家族を養っていたんだなぁとあらためて気づかされます。だから、自分はずっと仕事は手伝うことはできないけれども、神学校のことでどんなに辛くても弱音を吐いちゃいけないと思ったものでした。

飛び込んでみないと分からないことがあります。泥まみれになり、罪人のまっただ中に自分を置かないと、救いから遠く離れている人を拾い上げることなどできません。イエスさまは、私たち皆に、「行って学びなさい。わたしに倣いなさい」と呼びかけるのです。

イエスさまはすべての人に救いの手を差し伸べるために、その場に飛び込んでいきました。黙って教会の掃除に来てくれている方がいます。黙って土日の守衛の仕事に来てくれている人がいます。手をこまねいて様子見ばかりするのではなく、腰まで浸かって教会のために仕事をする、神さまのために自分を役立てる。そんな経験を皆が分かち合えるように、ミサの中で照らしを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(マタイ9:36-10:8)
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