主日の福音08/06/02
フランシスコ中田 輝明 葬儀ミサ説教
父は戦いを立派に戦い抜きました
私は亡くなった父・輝明の長男息子です。ご覧の通りカトリックの神父になり、通夜と今日の葬儀ミサを務めております。私はテレビドラマの1シーンのような、母と子どもたちに最後の言葉を残して去っていく姿を想像していましたが、実際にはこれといった遺言も残してもらえませんでした。
金曜日は、「イエスのみ心の祭日」でした。父は、ミサをささげながら、もうすぐそこに近づいていた「イエスのみ心」を受け入れました。翌日のミサは、「聖母の訪問の祝日」でした。マリアさまが父を迎えに訪ねてきてくれたと思います。そして今日から始まる6月は「イエスのみ心の月」です。いよいよ、イエスのみ心を受け入れて、旅立ったのかなと思いました。
昨晩はずいぶん自由気ままに説教をさせてもらいました。横たえられている父から「まちっと、信仰の話ばせろよ」と言われているような気がしています。1つの思い出を拾って、説教に入りたいと思います。
5月の連休に入る前、4月23日、まだ有川病院に入院していなかった父を実家に見舞いに行った時、何か家族に思い出を残してもらいたいと思いまして、自分の歴史、「自分史」を書くノート(アルフォンス・デーケン「あなたの人生を愛するノート」)を渡して、人生の節目節目の事を書いてもらうことにしました。私は「もし書く気があれば・・」という気持ちで預けて帰ったのですが、長男息子から頼まれたという責任を感じたのか、真剣に思うところを書きつけておりました。その中に、私が神父になったときのことが書かれていました。
「わたしはこれから自分の生活を極める者として、悔いのない、より高い信仰生活に没頭するつもりで毎日のミサに行っていれば神父さまの良い教えが神学校の子どもにも、養護学校の子どものためにもあると信じていました。
それから神父さまは説教で自由意志という言葉を使うようになりました。それはイエスさまの生き方を自由に、のびのびと生きていることかなと受け止めました。また、組集会のときにも、自我を捨てることなど大切なことを教えてもらいました。(中略)
こんなことをしている間に、新司祭を私の家に迎えることになりました。夢のようでした。それまでにスータンをいただくことから始まって、その1年後には聖書をいただく式にあずかったり、またその1年後には聖体を配るようになり、それから長崎の浦上教会で助祭式にあずかり、1年後に司祭の恵みをいただきました。
貧しさの中にもうれしくてうれしくてたまりませんでした。これが神さまのお恵みであると確信しました。その時からわたしはお祈りを切らしませんでした」。
長男である私のことを引き合いに出してみましたが、父は最終的にはカトリックの信仰の中で、家族それぞれが人生を全うすることを強く願っていたんだと、父が命を削って書いてくれた「自分史」を読み返しながら思いが伝わってきました。
その思いに家族一人ひとりがどれだけ応えているか、今さらのように反省させられます。父からすれば、なかなか、期待通りの息子に育つことができず、多少心残りだったかもしれません。結婚式も兄弟姉妹5人いて1回しか見せてあげられませんでした。
「何のそーん、輝あんちの息子の神父にならうっとっちかよ」と周囲の人に言われた私も、まだまだ神父らしい神父にはなっていません。「任せたぞ」と言えるような状態で旅立たせることができなかったことは、申し訳なく思っております。
父の霊名は聖フランシスコです。聖フランシスコというのは、「アシジの聖フランシスコ」のことを言うのだと思います。この聖人はすべてを神にささげる前は裕福な家に生まれ、馬に乗って街中を闊歩していた身分の人でした。けれどもある日回心し、自分のマントを路上生活の人に与え、馬から降りて、財産も放棄し、神と人々に仕える身となった人でした。
考えてみると父の生活も、ある日ある時回心して、自分の霊名のフランシスコのように、自然にいだかれ、牛と語り合って後半の人生を送ったのだと思います。毎日欠かさずミサに行き、寝ぼすけの私をたたき起して、ミサを拝んで生た人でした。
鯛之浦教会は平日のミサで、中学生が聖書朗読の当番を受け持っています。この習慣は長崎教区の中でもおそらく2つとない素晴らしいもので、誇ることのできる伝統です。このきっかけを作ってくれたのは、当時典礼部長をしていた父だと聞いています。ぜひ可能な限り中学生の聖書朗読は続けてほしいと思います。
また、父はいろんな人の葬式が出るたびに、典礼を信者がしないで業者に委託するのを改めるようにと繰り返し言っておりました。信者の手で、死者を神さまのもとに送るべきだと言っておりました。今日の葬儀は、できるだけ父の意向に沿って準備を進めました。
今振り返ると、父の病気に私は何回も気付いてあげるチャンスがあったと思っています。帰省するとこちらが怖いなぁと思うほどの咳を数年前から繰り返していましたし、今の馬込教会になってからしょっちゅう「何もなかばってー」と言いながら電話をかけてきました。その時は「やぐらっさよ、何もなかとに電話ばすんな」と思っていたのですが、今になってみれば、何かの不調があってのことだったのかもしれません。
1月の肺がん告知から4ヶ月、その間3度の抗がん剤治療にも耐え、有川病院での入院中もよく辛抱しました。神さまの前に立つ時、私たちは捧げものが必要です。捧げものがなければ、神さまからきっと「手ぶらでや?」と言われるはずです。父は病苦を捧げました。神様への手土産には十分だと思います。席はどの辺かわかりませんが、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ14・2)とありますので、何とか用意してもらえるのではないかと思います。
あとは、天国までの交通手段ですが、ジェットフォイルのような高速船で天国に直行するのは無理でしょうから、せめてフェリーの2等客室に乗せてもらえれば幸いです。残された母、私も含めて5人の子どもたちにも、皆さまの暖かいお心、言葉をかけていただければと思います。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第10主日
(マタイ9:9-13)
‥‥‥†‥‥‥‥