主日の福音08/05/25(No.359)
キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)
命がけで愛する人々に残してくれたもの

先週も父の見舞いをしてきました。病室でミサをささげてきました。父の霊名はフランシスコです。そこで、霊名の祝日に当たっているわけではありませんでしたが、聖フランシスコの取り次ぎを願って、アシジの聖フランシスコの記念日の典礼でミサを捧げました。神父である息子にできる、ささやかな親孝行です。

有川病院の担当の先生に外出の許可をもらい、25年近く働いてきた牛小屋に連れて行きました。ご存知の方もおられると思いますが、牛小屋は働く人が仕事をしやすいように小屋の中央が通路になっていて、通路をはさんで左右に牛を並べ、えさを食べさせる造りになっています。

その中央通路を車いすに乗せて行ったり来たり何往復かしました。父は大変喜んでくれましたが、牛小屋の仕事をする力が自分にはもうないのだと分かった途端、牛の顔も見たくない、こんな所にいたくないと怒りだしました。けれども、牛舎の牛は飼い主である父の顔が懐かしかったらしく、一頭残らず顔を近づけてくれたのです。

牛小屋を見学させたあとは、もう最後になるかも知れないので、家の中に運び上げました。いつも自分が座る場所に腰を下ろすと、「もう病院には戻らんけんな」と言って私たちを困らせました。それでも時間までには病院に帰らなければならず、心を鬼にして父を車いすに乗せ、レンタカーで病院に連れ帰りました。「おれをだましたな」と言われた時には、薬のせいだ、病気のせいだと思ってはいても、悲しい気持ちになりました。

刻々と、最後の時が近づいている気がします。顔は真っ黄色になり、言葉ははっきり聞き取れるのに何を言っているのか分からず、家族がそばにいてもお構いなしに自分一人で過ごしているような様子でした。こんな最後の日々を父と過ごすことになるとは思いませんでした。

父は、いろんな理解不可能な面があるにしても、人が最後に残してあげられるものは何か、命がけで教えてくれているような気がしています。命がけで、一度しか教えられないものを教えようとしているような気がします。一度しか見せることができないから、見逃さないようにしなさいと全身で私たちに訴えかけているのだと思います。

今日私たちは、キリストの聖体の祭日を迎えています。イエスは最後の晩さんで、ご自分の体と血を、食べ物としてお与えになりました。そして、出来事を記念として行いなさいと命じました。ご自分の体と血を与える最後の晩さん、聖体の秘跡の制定は、イエスが命をかけて、一度だけ執り行ってくださったものです。私たちにご自分の体と血を与えようとする最後の晩さんのように、父は一度しか教えられない最後の授業を、私たち子供に、家族にしているのだと思いました。

命がけで教え、残してくれるものは、たとえ一度きりであっても見る者に伝わるのだと思います。その場ですべてが伝わり、すべてが理解できるとは必ずしも言えませんが、少なくとも、真剣に見届けたものは、すべてを見たわけですから、必ず受け継いでいけるのだと思います。

何だか最後まで、朗読福音とつながらないような説教になってしまいましたが、一点だけ朗読箇所とのつながりを考えておきたいと思います。「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」(マタイ6・58)という箇所です。「このパンを食べる者は永遠に生きる」とあります。聖書のみことばと、ご聖体のうちにおられるイエス・キリストを拝領する者は、永遠に生きます。そして、命がけで家族に何かを残そうとしている肉親の父親もまた、最後まで生きようとした姿を家族が全身で受け止める時、家族の中で永遠に生きるのだと思います。

イエスは最後の晩さんの出来事を「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22・19)と命じました。一度しか弟子たちの前で行っていない出来事を、これからずっと引き継いでいくのです。病室の父が命を削りながら残そうとしている一回限りの天国への旅支度を私もこの目で見届けて、受け継いでいくべき何かを学ばなければならないと感じました。
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‥次の説教は‥‥
年間第9主日
(マタイ7:21-27)
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