主日の福音08/04/20(No.354)
復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)
わたしのうちにおられる父が、その業を行う

今日の福音を考えるために、7つの秘跡のうちの1つについて、理解を深めて欲しいと思います。それは、病人のための秘跡です。30年以上前に、私は教会の教え方さんから、7つの秘跡を教えてもらいました。病人のための秘跡は、「終油の秘跡」と習いました。30年前でも、そのように教えられていました。

ところが、この病人のための秘跡は、「終油の秘跡」という言い方ではその恵みの持っている豊かさを言い尽くしていないことが40年前に分かってきたのです。「終油の秘跡」という言い方ではこの秘跡の持っている豊かさは言い尽くせないので、「病者の塗油の秘跡」と呼ぶようになりました。

終油の秘跡と呼んでいた時代には、この病人のための秘跡は危篤の状態にある人のためだけの秘跡であるとされ、一生に一度しか授けることのできないものだと考えられていました。教会の理解が足りなかったのです。

第二バチカン公会議によって、この病人のための秘跡は理解が深まります。この秘跡の持っている本当の豊かさが分かってきて、「終油の秘跡」と呼ぶべきではない、むしろ「病者の塗油の秘跡」と呼ぶべきであることが教会も分かってきたのです。

今手元に、「病者の塗油の秘跡の式次第」がありますが、この中に「三、塗油を受ける人」という項目があります。そこには、5つのことが明記されています。

1.病気または老齢のために危険な容態にある人には、つとめて塗油を授けるべきである。容態については慎重に考えた結果、重いと判断されるならばそれで十分である
2.この秘跡を受けた後で健康を回復したが、再び容態が悪くなった場合、あるいは同じ病気が長引いて容態がいっそう悪化した場合、繰り返して秘跡を受けることができる
3.危険な病気のために手術が行われるときは、手術の前に塗油を受けることができる
4.老齢によって体力が著しく衰えてくるときには、危険な病気でなくとも塗油を受けることができる
5.子どもも、この秘跡によって力づけられるまでの物心がついているなら、塗油を受けることができる

教会は、病人のための秘跡がこんなに豊かであったことをあらためて確認し、繰り返し授けることができることや、体力が著しく衰えた高齢者にも授けることができるのだから、「終油の秘跡」という呼び方を廃止して、「病者の塗油の秘跡」と呼ぶようにしたのです。私たちも、この秘跡について、この際はっきり理解し、誤解のないようにしたいと思います。

理解が深まることで、救われることがあります。一般的な病気の呼び方で、これまで「痴呆症」と呼んでいた病気があります。今は決してこの呼び方をしません。今は人々の理解が進み、「認知症」と呼んでいます。「痴呆症」と呼んでいた頃は、症状の理解が不十分だったのです。目の前にいる人は判断や理解力が衰えたり混乱したりしていますが、必ずしも痴呆になったわけではないのです。

今思うと乱暴な言い方をしていたなと思うのですが、当時は医学的にも、社会的にも、理解が足りずにそういう見方をしていたわけです。きっと、認知症と呼ぶようになって、私たちは症状の出ている方への理解も深まったし、接し方も変わってきたと思います。このように、認知症への理解が深まったことで、本人も、その家族も、きっと救われたと思っていることでしょう。

全く同じことが、病人のための秘跡にも当てはまります。理解が深まることで、この秘跡を受ける人も、家族も、救われるのではないでしょうか。教会の理解が足りなかったために、終油の秘跡を受けることになったと聞いただけで、本人も家族も、どれだけ辛い思いをしてきたか、私は十分想像できます。

ですからここではっきりさせたいのです。「終油の秘跡」という呼び方は理解が足りなかった。この呼び方を廃止して、本来この秘跡が持っているもっと豊かな部分を言い表すために、「病者の塗油の秘跡」と呼ぶようになったと言うことです。どれだけの人が病人のための秘跡を十分理解せずにこれまで過ごしてきただろうかと思うと、司祭を含めて、教会が犯してきた過ちが大きかったと反省させられます。

そしてこの病者の塗油の秘跡についての理解は、今週の福音の次の箇所と結びつきます。ヨハネ14章10節「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」という箇所です。この病者の塗油の秘跡が授けられるとき、秘跡の中で父なる神が、イエス・キリストとともに働いておられます。

神が、秘跡を通して病人に働いているのに、危篤の人だけにしか働かないとか、一生に一度だけしか恵みのチャンスがないとか、そんなことがあり得るでしょうか。それなのに、教会はかつては理解が足りなかったために、病者の塗油の秘跡を狭い枠の中に閉じこめてしまっていたのです。

秘跡は、父なる神が、イエス・キリストとともに働いていることを理解するための絶好の機会だと思います。「わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」という聖書の言葉を、しっかりこの目で確かめるまたとない機会です。司祭が秘跡を執行しますが、いつもそれは、「わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」ということなのです。

それぞれの秘跡についてもう一度思い出してみましょう。洗礼式に立ち会うとき、洗礼を受けるその人を、神が目の前で神の子としてくださっているのです。堅信を受けているその人に、父と子が聖霊を注いでくださっているのです。聖体拝領するとき、イエスがご自分の体を割いて、私たちに分けてくださっているのです。あなたの罪を赦しますと司祭が言っているときに、イエスが私たちのそばにいて、罪を赦してくださっているのです。

そう考えるとき、病人のもとに来てくださる神が、危篤の人だけに恵みを注ぎましょうと言うなんて考えられません。一生に一度だけ恵みを与えましょうと言うとは思えません。むしろ、病気が重いとき、すぐにイエスは駆け寄って恵みを注いでくださるはずです。危篤になるまで神が待ってから出向くとは考えられないのです。繰り返しますが、教会はこのことについて理解が足りなかったのです。信徒の皆さんは教えられたとおりにしか学ぶことができなかったのですから、何も責任はありません。むしろ、教会側に、多くは教えた司祭に、責任があるのです。

特に今週は、病者の塗油の秘跡を通して、「わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」ということを考えました。イエスは今も、御父とともに働いておられます。特に、秘跡の中で働いています。危篤の時にだけ働くのではなく、今日も働いてくださる神に、今働いてくださる神に、信仰を持つすべての人が信頼を寄せることができるよう、ミサの中で導きを願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ17:1-11a)
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