主日の福音08/04/13(No.353)
復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)
羊が門を出入りして牧草を見つけられるように

今週の朗読はヨハネ10章です。このヨハネ10章を読み解くためには、その直前のヨハネ9章をどうしても頭に置いておかなければなりません。ヨハネ9章はどんな出来事があったかというと、「生まれつき目の見えない人のいやし」の奇跡が行われ、視力の回復の恵みを受けた人は、ファリサイ派の人々の脅迫「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(ヨハネ9・34)にも屈せず、「あの方は預言者です」と信仰告白し、まことの羊飼いであるイエスの声に聞き従ったというのが大まかなあらすじです。

この「生まれつき目の見えない人のいやし」という出来事を受けて、今朗読されたヨハネ10章に入るわけです。直前のヨハネ9章でファリサイ派の人々は目が見えるようになった人に「お前は、あの人をどう思うか」と追求しました。イエスに直接尋ねるべき質問なのに、目が見えるようになった人を脅したのです。そこでイエスは、「羊の囲い」のたとえ、「羊の門」のたとえを通して、ご自分がだれであるか、ファリサイ派の人々に答えようとしたのです。

「灯台もと暗し」という諺がありますが、イエスが「羊の囲い」のたとえの中で、ファリサイ派の人々を「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る盗人や強盗」扱いしているのに、厳しい指摘を浴びていることにまったく気付きません。自分たちは律法に明るく、一般民衆の上に立つ教師であると思い上がっていて、羊である一般民衆に害を加えている盗人、強盗だとは露ほども思っていなかったのです。

上に立つ人がイエスから厳しい指摘を受けているのに、当の本人たちは「その話が何のことだか分からなかった」(10・6)。まずこの点に注目したいと思いますが、ファリサイ派の人々の愚かさを読みながら、教会で主任司祭として派遣されている私自身、十分にわが身を振り返る必要があると思いました。もしかしたら私が信徒に危害を加えている盗人、強盗になっていないのか。もし自分で分からなくなっているなら、同僚の司祭や、はっきりものが言える第三者に指摘してもらってでも、自分が重大な過ちを犯していないか、反省すべきだと思ったのです。

「まさか」とは思うのですが、その「まさか」が落とし穴かも知れません。門を通って囲いの中に入る羊飼いに羊は導かれていくのですが、私はその間に立って邪魔をして、羊が羊飼いに導かれるのを妨げている部分があるかも知れません。信徒に知らせるべきことを知らせなかったり、信徒の活動の芽を摘んでしまったり、飼い主のいない状態に迷わせてしまっていた部分があったのではないか。そんな部分があったかも知れません。率直に赦しを願いたいと思います。

反省の上に立って、それでは教会で主任司祭はどう振る舞わなければならないかを考えてみました。イエスの次の言葉にその答えを見つけました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10・10)。このイエスの言葉に、それぞれの教会の主任司祭は忠実であるべきだと思いました。羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために腐心する司祭こそ、真の牧者ということです。

あってはならないことですが、羊が命を豊かに受けるようにと心を砕かない司祭は、結局は盗人であり、強盗ということになります。この司祭は真の司祭か、あるいは盗人、強盗ではないのか。いくつかの面で、すでに結果を求められていると思います。

少なくとも3つの面で、結果を求められていると感じます。1つは、教会を動きやすい仕組みにしているかどうかです。「門を出入りして」自由に活動できるように配慮していたのかなと思います。さまざまな活動に待ったをかけ、主任司祭が信徒の手足を縛って、身動きができないようにしているとしたら、私は加害者になっています。

2つめは、イエスが与えたいと思っている人に、必要な恵みが届いているだろうかということです。「牧草を見つける」ように配慮したかということです。七つの秘跡の恵みが、信徒全員に、溢れるほどに届いているだろうか。司祭の都合で、恵みの食卓から信徒が遠ざけられているとしたら、やはり私は加害者になっています。

3つめは、もっとひどいことをしてないか、つまり誰かを傷つけたり、言葉で脅したり、考える力を奪ったりして「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」してなかったかということです。もしこんな状態だったら、主任司祭は永遠にその責めを負わなければならないと思います。この3つを振り返っていると、主任司祭はできるだけ仲人に徹して、信徒をもり立てる役に回ることを学ばなければならないと思いました。

今週の朗読からは、信徒の皆さんへの呼びかけも見えてきます。いちばん分かりやすいのは「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」という箇所でしょう。説教のはじめに取り上げた生まれつき目の見えなかった人は、ファリサイ派の人々がどれほど脅しても、イエスへの信仰を曲げようとはしませんでした。羊は羊飼いの声を聞き分けます。これは学歴とか教養とかではない、何か特別な導きです。

神は、この聞き分ける力を信徒一人ひとりに与えておられます。週の初めの日の朝、婦人たちはイエスの遺体を納めた墓に出向きました。彼女たちの中に、聞き分ける力があったからです。今年列福式を控えている188殉教者のうち、184人は一般信徒です。信徒に、羊飼いの声を聞き、ついて行く力があったことの何よりの証しです。

どうか、信徒の皆さんが、「わたしが耳を澄ませば、ついて行く方向は必ず示してもらえる」と信じていただきたいと思います。信徒の皆さんに、神は真の羊飼いについて行く力を注いでいるからです。主任司祭はこれから、もっと信徒が豊かに命を受けるために、引っ張っていくのではなく支えてあげたいと思います。

今週の福音朗読を今年あらためて読み返して、教会づくりについて転換期にあると感じました。引っ張って行かなくても、いちばん後ろにいれば、必ず行くべき所に行く。これからはそんなつもりで、お手伝いできる態勢を作っていきたいと思いました。
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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
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