主日の福音08/03/23(No.350)
復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)
私たちにも空の墓の意味を教えてください

今日の祝いは、復活徹夜祭の喜びとはまたひと味違います。昨日は婦人たちの行く手にイエスが現れて復活の出来事を強めてくださいましたが、今日、日中の典礼で朗読されているヨハネ福音書の朗読箇所は、直接にはイエスの復活を見ない中で復活の出来事を信じる様子が描かれています。直接イエスの姿を見ない中で復活の信仰に導かれるさまは、私たちにとって学ぶことが多いと思います。昨晩の復活徹夜祭にも皆さん参加していますので、説教を手短にまとめ、その中でしっかり糧を得て生活に派遣されていきましょう。

今日選ばれた朗読に登場するのは三人です。マグダラのマリアとシモン・ペトロ、それにイエスが愛しておられたもう一人の弟子です。この三人の中で、共通しているのはイエスの遺体を収めた墓の様子を見たということです。この登場人物の中での違いは、マグダラのマリアは空の墓を見たけれども「遺体が運び去られた」と見誤ったのですが、シモン・ペトロともう一人の弟子は、空の墓の状況を見て、イエスが復活したのだと信じたということです。

登場人物の共通する部分から、なぜ違った結果が導き出されたのかを考えてみましょう。私はその理由の一つは、マグダラのマリアは個人として墓の様子を判断したけれども見誤ってしまい、シモン・ペトロともう一人の弟子は、集団で物事を考えた、聖書の別の箇所を引用するなら、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)という、神の民として起こっていることの意味を考えようとしたので、正しい答えにたどり着いたのではないでしょうか。

つまりそれは、人間一人ひとりの判断には誤りが生じる可能性があるけれども、神の民である教会として判断しようとする時、復活したイエスが共にいて、正しい判断に導いてくださるということではないでしょうか。

シモン・ペトロともう一人の弟子はイエスの復活に理解が及びました。目撃したのは空になった墓でした。空の墓を見た時、イエスの死を、どうしても認めなければならなかった。ではイエスが確かに死なれたのであれば、「三日目に復活することになっている」(マタイ16・21)、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24・26)この答えにたどり着いたのです。まさしく、二人の弟子がイエスの名によって集まっていたので復活したイエスが二人を正しい答えに導いたのです。

ここで一つの糧に結び付けてみましょう。次の言葉で表してみたいと思います。「わたしたちにその意味を教えてください」という言葉です。イエスの遺体を収めていた墓を見に行きました。墓は空でした。「わたしたちにその意味を教えてください」と真剣に求める時、復活したイエスが共にいて、照らしと導きを与えてくださいます。「わたしたちにその意味を教えてください」と願う時、私たちは復活したイエスに出会うのです。

中田神父は3月12日で42歳になりました。過ぎた1年は、司祭としても、人間個人としても、辛いことや難しい問題をたくさん経験しました。「わたしたちにその意味を教えてください」と、今は問いかけながら振り返っています。個人的な問題への答えなのですから、「わたしにその意味を教えてください」と願っても良いわけですが、同僚の司祭と相談したり、すでに同じような困難を乗り越えた友人知人に悩みを打ち明けたり、人生の先輩である両親と顔を合わせる時、家族で心を一つにして祈ったりして、「わたしたちにその意味を教えてください」と願いたいのです。きっと、復活したイエスが共にいて、出来事の意味を説き明かしてくださると思います。

今日こうして礼拝に集まっている私たちも、「わたしたちにその意味を教えてください」とともに祈り、願う相手がきっといるはずです。「わたしは天涯孤独の身です」と言い張っても、必ず、あなたのことを思い、心配してくれる人がいるはずです。そんな誰かと、「わたしたちにその意味を教えてください」と願ってみてはいかがでしょうか。

空の墓は、シモン・ペトロともう一人の弟子が「わたしたちにその意味を教えてください」と願った時、イエスの復活に思い至りました。彼らが心を一つにして集まった時、復活したイエスに触れたのです。私たちも、空の墓しか見ることができないわけですが、それでも復活したイエスに出会う道は与えられています。今も、願う人に復活したイエスが出会おうとしている。この希望を胸に、日々の生活に派遣されていくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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